Nov 7, 2017

クスクスの美味しい作り方




iPhoneXのAnimojiが面白いので、つい。

ランチにクスクスを作ってて、あっ、そういえば「お家でクスクスを作ったけど、レコルテのパーティで食べてたのの方が美味しかった。」なんて可愛いことを言ってくれてた人がいたのを思い出したので、私流のクスクスの作り方を。

ノーマルなものでも全粒粉のものでも、基本的な作り方はおなじ。

クスクスの箱の裏には クスクスを同量のお湯で戻すだけ って書いてあって、戻してからオリーブオイルやバターを入れてねって書いてある。

でも、クスクスってメーカーによっては、ちょっとだけ独特の香りがするものもあるから、私はクスクスを戻す時に使うお湯にオリーブオイルと塩、それと好きなハーブを入れます。
どんな付け合わせにするにも気にならないし、買っておくと便利だから乾燥のバジルを入れることが多いかな。

ここで、知りたいのはいろんなものの量でしょ?
私の料理は大さじ何杯とか測ったことないので、何となくだけど、100gのクスクスに100gのお湯だったら、オリーブオイルはスプーン1杯くらい、塩は半分よりちょっと少ない?くらい、バジルは35振りくらい。ごめん。多分、塩の量だけ気をつけたらいいと思う。塩辛くなったら嫌だものね。

ちなみに私がそういう時使ってるスプーン。大きさは大体で勘弁して。


クスクスやその他のものを入れたお湯と混ぜ混ぜしたら、必ず蓋をして3-5分蒸らしてね。

温かいものを添える時には、戻したクスクスにキドニービーンズやヒヨコ豆や何かを、オリーブオイルで軽く炒めて混ぜ込んだりもします。

サラダにする時は、みじん切りにした好きな野菜をクスクスと混ぜておいて、その後、その上にソテーしたチキンやエビなんかをのせたりする。コブサラダにプラスしても美味しいよ。



ドレッシングは、とりあえずオリーブオイルと塩、粗挽き黒胡椒を混ぜておいて、その時の気分でオレンジを絞って果肉と一緒に入れたり、トマトをザクザク切って、潰す感じで混ぜたりします。
アップルビネガーを混ぜても美味しいよ。
美味しくなるコツは、多分、手で混ぜる事だと私は密かに思っている。

自分の分の料理を作るのも楽しいけど、やっぱりパーティとかでみんなに食べてもらう方が作りがいがあるな。とか、思いながらいつもご飯を作ってる。

今回のランチのクスクスは、全粒粉のクスクスを上に書いた要領で戻して、冷蔵庫にあったオクラとグリーンオリーブを混ぜた。ブラックオリーブでも味が変わって美味しいよ。


付け合わせは、蒸したかぼちゃ(蒸すのがめんどうな人は、ラップしてチンしてもできるよ。)のサラダとベビーリーフとか色んな野菜とチキンを軽くソテーにたもの。

混ぜ混ぜして食べます。混ぜる前(食べる前;)に写真を撮ったのは奇跡的。自分のランチだからちょっと適当だけど。

オリーブが余ったら、もちろんそのまま食べてもいいけど、みじん切りにしてオリーブオイルと好きなハーブや嫌いじゃないんらスライスしたニンニク、唐辛子と一緒に混ぜておくと、パスタなんかに使えてシンプルで美味しいよ。

クスクスって買い置きができるし、お腹空いた時、ご飯炊いたり、パスタ茹でたりするより時間がかからないし、一人暮らしの人でも簡単に作れると思うんだけどな。

料理が面倒だったり、苦手なんだったら、グリーンカレーの缶詰とかかけても美味しいと思うよ。

食事の回数って、漫然と過ごしていると気にならないけど、結構限られてるから、楽しい食事をたくさんして欲しいなーなんてね。





Oct 5, 2017

うららかな秋の日の出来事

お薬をもらいに調剤薬局にお出かけしたついでに、公園のスタバに行ったら85%くらいの人が日本語を喋ってなかった。
すごい人数だったので少し驚いたけど、日本にいながら海外気分を味わえたし天気も上々だったので、新しく出たドリンクを頼んでテラス席でゆっくりした。

みんな楽しそうだった。

ほとんどが隣の国の人だったけど、中国から来た家族づれも1組いて、そこの子供達が必死でスズメを追いかけていたのが印象的だった。
私は、どこの国に行ってもスズメっているんだなあと思っていたから、もしかして中国にはスズメが珍しい場所があるのかなと不思議になった。

帰り道「いやいや君達、野良猫ではないですよね、その感じ。」といった風情の猫たちを見つけた。
家猫のように爆睡している外猫を見たのは初めてたっだので、近づいて行った。全く逃げない。
というか起きもしない。おおおお。
落ちてたどんぐりを優しく投げてみたけど、それでも起きない。
あいつらすごい。

お昼寝の邪魔しても悪いので、そろそろ帰ろっかなーとテクテク歩いてたら、いきなり「Japanese?」とお父さんと中学生くらいの子供2人づれに声をかけられた。

あースタバどこか?ってことかい?と思って「Yes」と言ったら、こう言われた。
「私たちは神を信じています。あなたは神を信じていますか?」
突然だなあ。どういうことだ?よっぽど不信心者に見えたのだろうか。
あんぐりしていると「これをもらって下さい」と栞のようなものを渡された。
それには「あなたが今夜死ぬとして、天国に行けると思いますか?」と書いてあった。

「あなたが今夜死ぬとして」って。ふふ。

この間「地獄の沙汰も金次第」なんて書いたから、神様が私にも天国行きのチケットを栞の形でプレゼントしてくれたのだろうかと思ってしまった。

たった3-4時間のお散歩だったのに、色んなことがあった日でした。

to eating your wife.
あー、今日はゴファンの試合の後、杉田VSラオニッチを見ようと思ってたら、なんと1ゲームめでラオニッチ棄権。考え過ぎかもしれないけど、杉田の試合の時相手が棄権する確率って高くない?

ということで、なんだか時間があっちこっちしてる気がしてNetflix をカチカチやってたら久しぶりにハンニバルでも見て神様にでも近づいてみるかと思いたって見ながら書いてたから。

しかし何回見てもポール・クレンドラーほどやな奴はいないな。
よくいるタイプではあるけどね。ステレオタイプで日和見主義。
組織でしか生きていけなくて、決してトップにはなれない中間管理職。

Okey-Dokey そろそろ、メインディッシュだから。またね。

あっNetflixと言えば、House of Cards が面白いよ。




Sep 28, 2017

ジゴクノサタモカネシダイ を勘違いしていた件 と Bosch


「地獄の沙汰も金次第」

なんだかエグイ感じの言葉だ。
でも、こういう言葉があるってことは、一体全体どういう経緯があって作られたんだろうと思って。


説明するまでもないのは「地獄」

いろんな宗教や親の教えによって、捉え方が違うかもしれないけれど、要は「悪いことしちゃダメだよ。そんなことすると地獄に行くよ」なんていう脅し文句に使われることが多いのではないだろうか。

いつも思うのだけど、ダンテの地獄編にしても、福岡市博多区にある東長寺のイベントコーナーの地獄にしても(日本全国のいろんなお寺に似たものがあるが)何故か地獄のビジュアルや罪の種類、罪人の段階分けまでが似ているのはどういうことなのだろう。

人間の欲というのは、地球の東西を問わず同じようなものということなのだろうか。

じゃあ「沙汰?」って。

閻魔様は怖いものだと思っていたけれど、ただの裁判官らしいということをつい最近知った。私は勘違いしていて、お金を持っていけば閻魔様にいい感じに見逃してもらえることなんだと思っていた。失礼した。

「沙汰」とはもちろん裁判のことである。
その裁判、実は天国行き、地獄行きの結果をどうのこうのしてくれるということではないらしい。
あるお金持ちが死んじゃって、地獄に落ちて行く様を見たどこぞの和尚さんが「おーこのままでは〇〇さんは地獄に落ちてしまうー」と気づき、そのお金持ちの遺族に「残ってる財産を村人に分け与えなさい。さもなければその人は地獄にまっしぐらじゃー」と言ったので、遺族は「それは大変!」とばかりに、全財産を村人みんなに分け与えた。
そうすると、地獄行きだったお沙汰がまぬがれて、晴れて天国行きになったということから来たらしい。

和尚がなんで気づいたか謎だが、偉いのは和尚の言うことをきいて全遺産を村人に分け与えた遺族だ。
多分、この遺族も天国行きだろう。

それと、閻魔様に関する話で感心したのは、彼は罪人を落としたくて地獄に落としているわけではなく、彼なりにものすごく辛い判断を下しているとの事。その証拠に怖~い赤ら顔しているのは、目の前の釜でアツアツに煮えたぎっているドロドロの鉄を、人間を地獄に落とすたびに柄杓いっぱい飲んでるのだそうな。地獄に送った人間の辛さを一緒に感じてくださってるんだと。(多分諸説あり。信じるも信じないも。。。)

いい話じゃないか。

「金」については説明はいらないよね。

なんでこんな話をしているのかというと、大阪国立国際美術館 で開催中のボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルラントの至宝 ボスを超えて に、ボスの作品が来ているということなので(目玉はバベルの塔だけどね)、プラド美術館やベルギー王立美術館、ルーブルやベニスのドゥカーレ宮殿で見たボスの絵を思い出したから。


中でもドゥカーレ宮殿で見た「地獄・呪われた者の墜落」「地上の楽園・祝福された者の楽園への上昇」は何回も見たせいか、なんだか忘れられない。もちろん有名な「快楽の園」もずーっと見ていたい作品だけど。

とにかく、いろんな昔話の中に出てくる地獄の描写が似ている理由を考えてみると、どれかが起源で、そこから人の口や書物で広がって行って、各国でその国に合うように描写されたものなのか、もしかして本当に「地獄」っていうのがあって、その話が当然のように語られていて、どこの国でもたまたま偶然似ていた!っていうのか。それだったらすごいけど、それだったら怖い。それはないか。

なんか全体的にどの国の作品を見ても「天国」より「地獄」の絵の方が多いよね。
ダンテの「神曲」も地獄篇・煉獄篇の方が天国篇より力が入ってる気がする。ブレイクの挿絵も全体102枚のうち70%が地獄篇の挿絵だったと思う。

それはそうと、「ロトの妻」が塩の柱になったっていうくだりがあるけれど「塩の柱」ってすごい発想力だなと聖書を読んでて(世界的ベストセラーだからとりあえず読んでる)感心していたのだが、イラン・ザグロス山脈に塩でできた山があって、表面はそれこそ針の山のごとく風化でトゲトゲになっていて、おまけに遠くから見たら人が立ちすくんでいるように見える塩でできた柱があることも知った。おまけに絶え間なく燃え続ける炎の山なんかもある。

それを見て「地獄」見つけちゃった。と思った。
というか、地獄の描写はここを見た人が考えたんじゃなかろうかと思えて仕方がなくなった。

幽霊の正体見たり枯れ尾花

うーん。真実は触れようとするといつも遠くに逃げていく。

私の知人の中には、一生のうちにいろんな国の美術館にあるフェルメール作品を全部見て回りたいなんて、バーニー(ご存知の通り、レクター博士が収監されていたボルティモアの精神病院の看護人。礼儀正しかっったので、もちろん食べられてない。)のようなことを言ってる人が何人かいるけれど、私はボスを探し回ろうかな。
どうせ地獄に行くなら、ボスが描くキテレツな生き物(?)たちに囲まれて過ごしたい。
赤鬼や青鬼ばかりじゃつまらない。

みんなも、どう?

Aug 12, 2017

しかし、暑い。

病院に行くだけで、アスファルトにくっつきそうになる。

私の担当の先生は院長先生と女医さんなのだが、今回は女医さんの方だった。
体に負担がある薬が必要なので、毎回いろんな検査の上処方される。
今回の検査では微妙な数字が出たらしく困っていた。
「うーーん どうしよう。体の負担を考えたら少し減らしたいんだけど、減らしたら減らしたで、効いて欲しいところが不安。あなたはどう思う?」
「先生、どっちをとっていいかと聞かれると、私もなんとも」と答えたら、「あなたに聞くことじゃないわよねーもちろん。うーん」とひどく困ってしまっていた。
「先生が安心できる様ににしていいよ」と言ったら、「私を安心させてくれるの?」「はい」
「じゃあ、時間がかかっちゃって申し訳ないんだけど、もう少し検査させてもらっていい?それから判断したいかな。ごめんね」って。
なんか、可愛らしい人なんだよね。

先生、いいよ。いつも一生懸命、丁寧にしてくれてるのはわかってるんだから。
おんなじ病気の人がたくさんいないのもわかってるし、症状の出方も一様ではない事はちゃんと理解してるから、ユックリでいいよ。
もう、長い付き合いだし、これからも続くんだからさ。


私は気が短いとか、いろんな事に厳しいとか思われてるけど、一生懸命やってる人には、案外と優しいのだ。

みんなも、暑いから体気をつけてね。




Jul 5, 2017

移動祝祭日

時々、私は1900年代初めに生きていたのではないかと思う時がある。
その頃のパリやアメリカのお話を読んだり見たりすると、ありありと情景が頭の中に浮かんで、なおかつその場所場所の持つ香りまで漂ってくる。

パリには今でもその頃から営業しているカフェがあるから、何度も訪れているうちにそんな気分になっているのかもしれない。シャンゼリゼやオペラ座もいいけど、買い物やオペラは1日行けば満足するから、何日もいると隅っこの方に行きたくなって、モンパルナス墓地なんかに出かけて行く。

墓地といっても日本のそれとは少し違っていて、墓標も素敵だし(ブランクーシのキスがあったりする)ゲンスブールやアンリ・ポアンカレ シャルル・ボードレール ギ・ド・モーパッサン ジョリス=カルル・ユイスマンス マルグリット・デュラス マン・レイなんかが永遠の時を留めて横たわっている。

話はそれるがマルグリット・デュラスが「ラ・マン」を書いたとき、冒頭の「A dix-huit ans j’ai vieilli.」というフレーズを書きたかったがために、後のお話をくっつけて書いたように思える。18歳でわたしは年老いた。あのお話はその部分だけが秀逸な小説だと思うから。

本や映画、絵画や詩で子供の頃から親しんできた人たちが、本当に存在していたと思える場所だから1日いても飽きない。墓地を出た通りにあるカフェででかいメレンゲを買って、日がな一日墓地の中を散歩する。どんな風に生きてどんな風に死んでいったのか感じながら。

活字中毒なのでどんな本でも読むのだが、何度も読み返す本は少ない。「移動祝祭日」や「優雅な生活が最高の復讐である」「ウは宇宙船のウ」などは何回読んでもキラキラしていて、どうしてだろう、その場所にいたかのように揺さぶられる。

本の中にある時間の流れのせいなのか、初冬の暖まりきれないパリのアパルトマンの暖炉にタンジェリンの皮を投げ入れた事などないにもかかわらず、確かに手応えのある香りがしてくる。湿った薪の匂いとオレンジが放つ芳香。

遠くの街や、時間に想いを馳せているのは、多分、お部屋から出ていないせいだ。出られないせい? その頃の本をたくさん読み返す事をするときは、現実逃避ではなく、自分の存在を確かめたいときでもある。好きなものだけを身の回りに集めると、嫌いなものや事を忘れることができる。

とこどきそうやって確認しないと、あっという間に嫌いな物の渦に容易に巻き込まれてくだらない人になってしまいそうになるから。

副作用という嫌いなものと、薬という苦いつぶつぶはどうしていつまでも私を押しつぶそうとするんだろう。私の体は私のものなのに、中で何が起きているのかさっぱりわからない。検査で出る数値だけが私なのだとしたら、やっぱり人間って数字で支配されているよね。
子供の頃から思っていた。人間が決めた値でほとんどのいろんなことが進んで行くことが気に入らないと。時間も暦もお風呂に入って100数えるのもおやつの数も。

嫌いでしかたなかった。今も嫌い。自分たちが決めたことで自分たちのことを窮屈に縛っているみたいだと思う。
成績もお金も人間の価値も。

でも、それがないと私の価値もない気もする。
他者との違いを明らかにするのもやっぱり数字だから。やだな。

ちょっとブルーな病気持ちのグズグズでした。

「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ」とヘミングウェイが年老いて回想した青春。私の中にも回想できるパリが少しでもあってよかった。

レクター博士も囚われてなお「記憶の宮殿」の中を自由に歩き回れると言って、美しいフィレンツェのスケッチを記憶だけを頼りに描く。

今になって思う。母から「いつも落ち着きがなくて、時々どこにいるかわからない」と言われていたように、色々なところに行ったり体験したりしててよかった。
私の「記憶の宮殿」も、案外、多岐にわたるようで退屈しない。
こんな時のためのあんな時間だったんだろうと思うよ。無駄ではなかったみたい。

キャサリン・ダンの「異形の愛」が再販されてる! おすすめ。
あっでも、レクター博士が好きだというとすぐ「人の肉食べる変態じゃん」というような人にはおススメしない。

Jun 7, 2017

ジェラートからアリス

ピスタチオのジェラートを頼んでワクワク待ってると、
真っ白なジェラートが出て来た。

「ハイ ピスタチオ、今日、ないから ミルクでいいね。」
「ちょっとまったああっ ないならないで他の選択肢、教えてよっ!」
「いいじゃなあい ジェラート 食べれるんだからぁ」
最後の方の声は、消える前のチェシャ猫のごとく
くるくると緩慢に消えて行った....エコーとニタニタ笑いを残して。


アサマシイことに、そんな夢で起きてしまった雨の朝。

あまりにアサマシかったので、チェシャ猫の名言を。


"Alice: What road do I take?
アリス/道を聞いてもいい?

Cheshire Cat: Well where are you going?
チェシャ猫/どこにいきたいかによるけど?

 Alice: I don't know.
アリス/どこに行きたいか、わからないの

 Cheshire Cat: Then it doesn't matter. If you don't know where you are going, any road will get you there.

チェシャ猫/ならどうでもいいよ。どこに行きたいかわからないなら、どの道を選んだってそこにたどり着けるんだから。"

そしてチェシャ猫の飼い主である公爵夫人の粋な言葉も

"みなが自分ことだけを考えて、人のことに口出ししなけりゃ、この世は今よりずっと上手く行くものを"

"世界を動かすものは、ほかならぬ愛である"

これでアンニュイな雨の夕方の読書は、シュニッツラー(Arthur Schnitzler)の「夢小説」再読に決定。
もちろんBGMは「アイズ・ワイド・シャット」のサントラで。

そして、夜のマレー戦に備えなくてはっ!

うー、ピスタチオのジェラート、食べたい。



Jun 2, 2017

腹が立って哀しくて仕方ないけど、


直後は激昂して、書きなぐることで気を鎮めようとして、とても見せられない罵詈雑言を綴ってしまったけど、落ち着いていろいろ考えてみた。大したことじゃないけど。

人はどこから来て、どこに行くのか?
物心ついた時から、自分のことなのに何もわからず、ずっと問いかけ続けているが未だ答えなど出ない。

この、そういう時によく使われる「どこから来て、どこへ」という表現を使うから答えが出ない理由なんじゃないかと思う。

「どこから」とか「どこへ」とか。
いわゆる単純に言えば「場所」を表す表現だから、人は謎として答えを探してしまう。
答えの出ない問いや、知らないことを恐れるから。

そういう行動は、一応思考能力が備わっているとされる人間にとって、探究心や好奇心、向上心として歓迎される資質だと思う。

地球にとって無限に増殖し続けるウィルスのような人間という種に、私たちが思っているほど大それたドラマが果たしてあるのだろうか?

砂時計は、たくさんのキラキラした砂つぶが、ロート状のガラスの中で上から下へ落ちることで時間を見えるようにしてくれる。
ひっくり返した初めは、たくさんの砂つぶが入っているように思えるが、最後の方になると、なぜか同じ時間を刻んでいるとは思えないほど、あっけなくおちる。
始めた時と同じ一秒のはずなのに。

でも砂時計のずるいところはここからだ。空っぽになった不安に包まれたガラスの部屋は、次に紅茶を入れるときには、今から砂つぶを受け入れる優しい揺りかごにそっと入れ替わってみせる。
まるで、繰り返される生の営みのように。

でも、ふと思う。この砂つぶは、昨日時を見せてくれた砂つぶとは何かが違うということ。
そして目の前の紅茶も紅茶という名前は同じでも、違う「紅茶」だってこと。

人間は、考え方の違いや、好きなものの違いくらいで人を憎んだり、傷つけたりする。自分の考え方や思考が他人と違うということが、そんなに大切だろうか?大切に思うのは自分の中だけでいい。そして、じぶんの愛する人たち、例えば’一緒に生活するような狭い範囲でお互いを少しでも分かり合うために、努力をすればいいんじゃないかと思う。それでも結構難しいはず。

お父さんはコーヒーが好き。お母さんは紅茶が好き。隣のおばさんはバラの垣根を大切にしてる。隣の猫はお昼間はお散歩に行っている。私は芝生が好き。

そのくらいから始めて、今度は少しだけ前に進む。お父さんを見ていると、コーヒーを飲む時、ミルクは入れるけど、お砂糖は入れない。お母さんは紅茶を飲む時、ミルクを入れたりレモンを入れたりする。隣のおばさんの垣根のバラははよく見ると全部白い薔薇だ。隣の猫はお散歩に行く時垣根の下の決まった場所を通る。私が好きな芝生は、裸足だとちょっと濡れるくらいの芝生。

次はコミニュケーション。人にはその能力が備わっているとされている。
じぶんのことを少しでも知ってもらいたかったら、まずはこちらから寄り添ってみるのはどうだろう?大切に思う手の届く範囲の人たちなら、できるんじゃないかな。

「お父さんって、コーヒーにお砂糖入れないよね?」ここで初めてお父さんのことが少しだけわかるはず。「お母さんって、ミルクティーとレモンティーはどっちが好きなの?」ここまでは案外簡単。ここからが少し難しい。隣のおばさんはあくまでも家族ではなくて、他人なのでズケズケと聞いてしまうと、話したくない理由があるかもしれないから、本当に聞きたいことはちょっと我慢して「今日も、いいお天気ですね? おばさんちのバラ綺麗ですよね」くらいでおばさんを観察して見る。猫はそうだね、尾行するしかないか。刈り立ての芝生の匂いも好き。

お父さんとお母さんが、なんて答えてくれるかも楽しみだし、白い垣根のバラの謎を探求するのもワクワクする。だけど、答えは自分が想像していることと違うかもしれない。
必ずしも望んだ答えではないかもしれない。

もしも、お父さんが「初恋の人と初めてデートをした時、あの頃はスタバとかなくて、ちっちゃな喫茶店でね。彼女のことなんかまともに見れなくて。彼女がコーヒーを銀のスプーンかき混ぜた後にそそいだミルクが、くるくる吸い込まれて行くのを、ずっと見てたんだ。なんだかそれからコーヒーにはミルクって、思うようになったんだよね」と。

あなたがまだ小学生くらいだったら、「ママ以外の初恋の人って!」とキャパを超えるかもしれない。だけど、それだけでお父さんを判断していけない。それはその人の人生のたった一部。ほんのカケラでしかない。多分、そのあともいろんな出来事があって、今のお父さんが出来上がっているのだから。そしてあなたも高校生になって、大人になって、そうしているうちにお父さんのその出来事が素敵なことだと思える日が来る。それに、なんてったってお父さんとお母さんの愛の結晶であるあなたが、そこにいる。

だから、相手のことも自分のことも決めつけないで、そのふれあいを続けなくては。それをやめた時、自分のことを少しだけわかってもらうチャンスも失ってしまう。

だって、今のあなたは裸足で朝露のついた芝生の上を走り回っていますか?
隣の猫を、懲りもせず尾行してますか?
垣根のバラは満開ですか?
もう、謎は解けましたか?
それとも興味も失いましたか?

あなた自身のこともよくわからないのに、他人のことを決めつけてはいけない。
お母さんの答えが「あら、どっちも大好きよ」って至極簡単な理由だったとしても、がっかりしないでね。「どうして、そんなこと聞くの?」ってそんなことを聞いて来たあなたに興味を持ってくれるはず。だからそう言われたら、しめたもの。あなたのことを話せる。そして会話が続く。もしかするとお母さんは隣のバラの垣根の謎を知っているかもしれない。

一人ではないというのは、そういうことではないかと思う。
地球にへばりついて生きているウィルスだとしても、そのくらいのことはできる。
そのくらいの範囲での努力ならできる。
それが、学校とか社会とかいう範囲に少しずつ広がっていったとしても、大したことはない。
そうやって怖がらずに試行錯誤すればなんとかなる。

大切なポイントは、自分の好奇心を最大限に発揮するのはいいけれど、相手がある事だからそれ以上に相手を尊重するってこと。ゆっくり、よーく観察して。

そこさえ間違えなければ、なんとかなる。

絶対になんて言葉は窮屈で困るけど、それでも何かのちょっとした違いで他人を傷つけるのはやめてほしい。考え方や生き方なんて、ちっぽけな人間の中にあるちっぽけなものでしかない。
自分の中でだけどうのこうの判断するしかない。決して他人に押し付けてはいけない。それが家族という最小限の単位だったとしても。人間が二人になった途端、相手が誰であろうと、そこには自分とは違う思考の人が必ず存在することになるのだから。

1+1は1にはならない。永遠に2だ。
人がどこから来て、どこに行くのかなんてわかるはずもないけど、このケースのこの答えは変えようがない。

分かり合えないのが悲しいと感じる人がいるかもしれない。
でも、初めから分かり合えたとしたら、本当に楽しい?
なんの努力もなく、相手の思いや考え方、選択の仕方がわかったら本当に楽しいかな。

そうしたら他人に興味がなくなって、本当に増殖するだけのウィルスになってしまいそう。
生きるために、ただ、生きるだけ。
それって、どうだろう。

どうか、自分以外の人を思いやってください。そして、自分のことも思いやってください。
あなたも他の人も弱くて一人でちっぽけで、ほんの少し自分として存在するだけのものなのだから。人は必ず終わらなければならないのだから。その間だけでも優しくなれない?

多分、それはきっとあっという間だよ。
だから、人と違うのは当たり前のことなんだから、そんなことぐらいで他人の時間を奪わないで。そして自分の時間を放棄しないで。
もう一度、隣の猫を尾行してみようよ。おばさんに「いい天気ですね」っていってみようよ。
そこから、やり直してみようよ。何回でもできるはず。時間さえ残ってれば。

そう、そしてこれはちっぽけな私がちっぽけな私の時間と範囲で考えたことだから、みんなもそう思うでしょ?とか大それがことではない。
今の私が考えてたらこんな風に思ったよっていうだけのこと。
「今日も、いいお天気ですね」と同じくらいのこと。
なら、なぜ他の人の目に触れるようなところに書くの?って聞く?
なぜだろ、諦めてないからかな。諦めきれないからかな、何かを。
自分でもまだよくわからない。

それにこれを読んで「私は違うと思う。」と思ってもらっても、それだってとても大切なこと。
今までには存在しなかったコミュニケーションが1つだけ増えた。

テロなんてしないで。