Jun 29, 2019

院長大魔王


ちょっと時間が経ったから言えるんだけど、実は今回再発した時の初診で、院長にマジギレされた。本当に。

「いいですか?経過観察が大切だって言ってますよね。
その間のデータがこちらで取れてない時期があって、
最悪、再発しました。だから治してください・・・。

以前にもお話しした通り、こういうパターンで再発を繰り返す症例はないんです。
再発の原因もわからないし、再発にはこの治療しかないからやります。
けど、毎回毎回、これからもこの治療が効いてくれるっていう保証もないわけ。
この治療は体にも負担がかかるし、実際、もっと自分の病気を重篤なものだと捉えて、最悪なパターンもあるってことをきちんと自覚してください・・・」

大の大人になって、大の大人からこんなにストレートに、こんなに可愛い看護婦さんたちの前でマジで怒られるとは。

ちょっと忙しかったり気分がノらなかったりで、パスしちゃったことは謝る。
ほんと悪かった。

泣きそう。看護師さんがそっと背中さすってくれてるしー。
いつも飄々としてると思ってたのに、熱いやつだったんだね。
それに、そんなにはっきり理路整然と 立て板に水 みたいに話せるんだ。
いっつも、声ちっちゃいじゃん。

ごめん、ごめんなさい。

「いいですね、すぐ入院して治療開始しますので手続きに行ってください」

うわっ、怒られてる途中、もう見放されるんじゃないかと思った。
そんな不出来な奴は、他所へ行けって。
そのくらい、怖かったんですけど。

手続きに行く道すがら看護師さんが「大丈夫ですよ。院長先生たまーにですけど、はっきりものを言いすぎる時があって。心配されてるんですよ。あっ、でも、根に持つタイプではないですから」って。ネニモツタイプ。

あれっ、今、時間がたって冷静に文章にしてみると、結構、聞きづてならないフレーズがちょいちょい入ってる気もするけど、まあ、いいや。そこは深く考えないようにしよう。
今回も治療は効いてるみたいだし。

だから、真面目に来ます。約束します。
と、ここに高らかに宣言しようと思う。

それに「ごめんなさい」しちゃったしな。
ちっちゃい頃から「ごめんなさい」する時は「もう2度としません」って言う覚悟と約束をしながらじゃなかったらしなくていい。
それができないんだったら簡単に「ごめんなさい」するな。
って、お父さんに言われてたからな。
幼稚園では先生から「絶対謝らない意固地で生意気なガキ」(もっと言い方はメロウ)とお母さんに告げ口された。
別に大したイタズラしてないし。謝るほどでもないし、またやるし。

みんなももしも病気になっちゃったりしたら、先生の言うことちゃんと聞いてね。
私の先生はとてもいい先生です。












Jun 28, 2019

その少女たちは真っ直ぐな瞳をしている。

最近、というかここ最近、見るたびにいい顔になるなあと思う少女たちがいる。

その人の絵を初めて見せてもらったのは、もう何年か前になる。
Tokay Gecko に出してきてくれて、個展もやってくれた。
その時の女の子たちは、将来が定まらずにフワフワで、描かれている少女たちの世代そのままに思春期真っ只中って感じだった。

思春期特有の危なっかしさと、根拠のない自信をまとって、なのに、ちょっとだけどうしていいかわからない戸惑いと不安を漂わせていた。

実際の絵は見れないのだけれど、ずっと画像で追っていると、いつからか行き先がはっきりして自信を持ち、余裕が出てきて、強い真っ直ぐな瞳を持った少女たちが存在するようになった。ここ最近は特に。

きっと生み出してくれるお母さんが、いろんな人に見てもらっていくうちに間違いなくついた自信と方向性が出てきたんだと思う。

颯爽と、凛として、潔く、どこにでも旅立てる目をした少女たち。

描かれたモチーフはなんでもいい。マルでもシカクでも。犬でも猫でも。
そこじゃないんだ。感じるところはそこじゃないんだ。
そこだけ見ててもなにも見えてこない。

そう、そしていい作品は描いた人から軽々と旅立っていく。
いい作品の周りには、自分以外の人の力も自然と集まってくる。
生み出した人の手にも追えないくらい、きちんと一人歩きできる。
と、私は思っている。

絵の世界を開店休業している私が、なんだかんだ言ってもおこがましいだけなのだけど、その人の絵をこれからも出来ればこっそり見ていきたいなと思う。


たまには大好きな絵の世界のこと、ちょっとだけ言わせてくださいな。

Jun 25, 2019

ヤッホー


また入院。再発。
この前の治療が201711月だったから、今回は2年持たなかったね。

書いててふと気づいたんだけど、2017年の初夏は最初の治療から「やっておけば、2年は再発しないでしょう」って言われて、4年経ってたから上出来だったわけで、なぜその後、同じ秋にソッコー再発したかっていうと、その夏にレクターが私を置いて行っちゃったんだよね。あいつはいつもそばにいてお話もよく聞いてくれてたんだけど、私が「ずっと一緒にいようねー」っていう時だけ、ちょっと悲しそうに目をそらす癖があったんだ。
出来ない約束はしないよって言ってるみたいに。おまけにちっとも迷惑かけなかった。少し目を離したすきにそっと行った。私だけ往生際が悪かった。

もしかして、実は根性なしなんだろうか。私。

今年の初め、大好きな友達に「今年は去年より元気な感じですので、ちょっぴり活動的な日々を送りたいと思っています。会える日を楽しみにしています」って、メッセージして、「私もお会いできるのを楽しみにしています!」とかなんとか言ってワクワクしてたのに、会えなくなっちゃった。

年が明けてからもなんだか忙しかった。
たくさんデザインしたり、たくさん物を作ったり、いろんなところに飾ってもらったり、バタバタと元気だった。


春先になって、地獄を見た。
立てなくなった。右手が動かなくなった。ふふっ。
それはなんとかしのいだけど、今度は以前と同じ嫌な感じの「あーそれはダメですねえっ、病院行きですよー」ってところが再発した。

原因不明だから、摂生してストレスを避けてって言われ続けてるけど、難しいよ、それって。
摂生、摂生って、タバコも吸わないし、お酒も飲まないし、深夜のラーメンとか脂っこいものとか食べないし、自炊するし、外食する時も別に変なものは食べないし、あと何? チョコは食べるよ。だから?

それに、普通の人のどのくらいがやりすぎで、私のどのくらいがやりすぎなのかもわからないし、いろんなこと途中で辞めれる?最後までやるよね。
だってやろうと思えばできるんだもん。なんだって。
そのあと、ちょーっとおっとおあれれって、動けなくなるだけでさ。
わからないよ。ストレスって、どれよ。どんな時よ。
シルクのシャツを普通洗いで洗っちゃた時とか、買ったばかりの靴のかかとの皮が剥けた時とか、アイスの新作が期待外れだった時とか。それもそうなのか?
あっ、じゃあカフェのちっこいテーブルの脚がカップ置く度にガタガタする時。これはハッキリとストレスだと感じる。

色々調子に乗ってやりすぎたのかなあ。
ほんとに今年は調子がいい感じがしたんだよね。
ううん、本当はちょっとそれもあるし、それもまた違うかも。

死ぬほど悲しいことがあって、自分でも恐ろしいくらい対処できなかった。
心がちぎれて、拾い集めても拾い集めても、集める側からこぼれ落ちていく。

足元が、ふわりと捉えどころがなくて、部屋の隅々に悲しみが積もって、夜の大好きだったはずの時間になると、その隅っこからまるでラッピングされるように積もった悲しみが包み込んでくる。

何もしてない時が、お風呂に入っている時が、油断してる時が一番危なくて、気づかないうちにボロボロ泣いてて、久しぶりにというか、母が亡くなった時ぶりに父に涙を見せた。泣いてお話をした。

怖かった。何かが、何かはよくわからないけど、心から怖かった。
生まれて初めての感じだった。

死ぬほど悲しいことがあって、って書いたけど、人なんて簡単に死なない。特に私は死ぬことがというか、自分が自分じゃなくなって無になるということをまだ受け入れられてないから、ジタバタするくらい怖い。
ということだからか、再発という形をとることで死ななくて済んだと思うと、ラッキーなんだと思う。
死ぬ勇気はない。そこんところはたいそう弱虫だから。

その悲しい出来事を受け止めた形が再発の一つカケラだとしたら、なんだか嬉しい。
それなら甘んじて受けようではないか。
そして、復活しよう!今度はなるだけ長く!

とか言って、ただのそういう周期なだけで、なんてことないのかも。
みんな、家族が大変な病気になったり、予期せぬことに見舞われたり、生きてれば色々あるのにちゃんと辛くても頑張ってるもんね。偉いよな。ままならないな。

やっぱただの根性なしなのかなあ。
でも、根性って言葉もなんだかなあ。令和だし。

だけど、私は忘れないでいよう。
私なんかとはくらべ物にならない程の、喪失感と悲しみを抱えている人が他にも確かにいるってことを。
癒えるはずもないけれど、どうか、少しでもと。


Jun 23, 2019

自由な死について



多くのものはあまりに遅く死ぬ。ある者たちはあまりに早く死ぬ。「死ぬべき時に死ね」という教えはまだ耳慣れまい。死ぬべき時に死ね。ツァラトゥストラはそう教える。むろん、生きるべき時に生きなかった者が、どうして死ぬべき時に死ねよう。そのような者は生まれて来なければよかった。わたしは余計な者たちにそう説く。

ここだけ読むと、言葉の強さから拒否反応を示す人もいるだろう。
死ぬ 死ね という言葉は使ってしまうと罪悪感を伴う恐怖を感じる。

生きるべき時に生きなかった者が、どうして死ぬべき時に死ねよう。

その言葉だけで語るとしたら(もちろんこちらからしたら、勝手にものすごく哀しくてしょうがないのだけれど)もしも早くに死んでしまったとしても、それは、生きるべき時に生きたから、そうしたら死ぬべき時(そんな時があるのかどうかは別にして)に死ねたんだってことでいいんだよね。

生まれることも、死ぬことも 基本、自分ではどうにもできない。

ただ、物心がつく頃まで生きると、なんだか生きるべき時が嫌でもやってくる。
いろんなしがらみや生きにくさも同時に訪れるけれど、そんな事は、生きるべき時に「これは、生きてみるしかなさそうだな」と腹をくくれば、時が経てば笑い話か、記憶さえあやふやな過ぎ去った日々の天気の様なものだ。

遠足の日の雨を覚えていても、それが記憶となった今、その時の雨とは違った雨に見えるはず。
きっとその遠足をすごく楽しみにしていたのなら、すごく嫌な雨だったよね。なのに、過ぎちゃった。それにそのあと、デートの時に好きな人との距離を少しだけ近づけてくれる優しい雨が降ることもあることを知った。そう、生きてきたから。
だから、次の雨がどんなに嫌な雨だったとしても、素敵な雨も降ることを知っていれば、きっと大丈夫。

ツァラトゥストラは、この時点ではなんだか優しい。
その事を、余計な者たちに説いている。説こうとしている。
人が生きていくうえで、取り返しのつかないことにならない様にしてあげたいという、愛を感じる。

私だったら、自分で決めたわけでもないのに、気がつくと生きていかなければならないことになってしまった時、そしてそこから時間を過ごしてきた時、自分でその事に考えが至らなかった人に、そんな事をわざわざ話そうとは思わない。

最近思う。
誰かが亡くなった時、ある人はすぐにその理由を聞きたがるけれど、亡くなった人が生きてきた理由は聞きもしない。
そんな人に、どう答えればいい?
はっきりと目に見える事実は「もうここにいないの」という事。
それしかない。

それより、その人が存在したときのことを話そうよ。
あんな風に笑ったとか、あんなところがドジだったとか、あんなにも素敵な絵を描いたとか。声が好きだったとか。
乾ききることが難しいカサブタなのに、何回剥がせば気がすむんだ。
その度に、血を流し続けるしかないじゃないか。

答える方もほとんどの場合、亡くなった理由は(それが事実かどうかな別にして)口にしやすいが、その人が生きてきた理由を上手く伝えることが出来ない。

そして、その人が存在した理由を見出せないのなら、世間話のついでみたいに口にしないで。いなくなった時点から時が過ぎ、今になって、どうして?って聞かなくちゃいけない立場だとしたら、故人からすると知る必要はない人ってことだと思う。

人が死ぬことに対して鈍感な人もいる。本当に興味がないのか、怖いからなるだけ触れないようにしたいのか、その理由はよくわからないのだけれど。
「明日の天気、どうよ?」っていうくらい簡単に「どうして死んだのよ?」「何が原因?」「病気なの?」って。
達観してるのか、バカなのか、どっちだろう。

そういう人は簡単に「人はどうせ死ぬために生きてるんだから。」とかどっかで聞きかじった受け売りであろう言葉を平気で使う。

人は死ぬためになんか生きてないよ。生きるために生きて、生きて、だから苦しんだり、喜んだりして。
ただ、どんな旅にも終わりがあるだけ。

それに、その旅の終わりを経験した人が、のちに私たちに「あのね、旅の終わりはこうだったよ」とか「次の旅が始まるよ」とか話してくれる機会がないから、ちょっぴり不安だったり寂しかったり、自分ではどうにもできないだけ。

だから、自分でちょっとでもどうにかできそうかなって時を、生きるために生きるしかない。

君が死んだ時は、旅行に行った時の馬鹿話とか、面白くなかった映画を見た話とかのついでに、「で、あいつ死んだんだって? なんでよ? どうしてよ?」「まあ、実は全く興味ないんだけど。」って言ってやるよ。
って思っちゃうくらい、腹立たしかったんだ。口悪くてごめん。
そんなこと言わないよ。

この曲、可愛いよ☆




Mar 11, 2019

思考の飛躍 2019311

改めて思う存分今回の彼女の作品をながめていて、ふと水の音が聞こえてきそうな作品をみつけた。私にはその絵が、遠くから見ると雨に降られて観光客もまばらになり、回廊にあるカフェの光が淡く遠く弱々しく映っているベニスのサンマルコ広場の石畳を思い出させ、近くで見ると雨には変わりはないのだが、それこそ午後のNYの少し混雑したアベニューをホテルに向かうタクシーの座席からガラス越しに見える曇っているのに少し明るいあの空と、雨のせいか少しうつむき加減に急ぎ足で行き過ぎるいろんな国の人々、そして、雑多な色の広告もネオンサインも雨のベールを纏ったガラスごしにちょっぴりぼやけてしまっていて、少しずつ進む車の速度と、あまり早くない定期的なワイパーが揺れるごとにデザインを変えて、流れたりとどまったりしている。そんな事を思い出させる。


しかし、その雨は雨だからといって少しも嫌な訳ではなく、例えば、最愛の国ベニスに滞在している時の心地よい異邦人感覚と、いにしえの美術品や建物に囲まれて、感慨深く、何度来ても時の流れの膨大さに圧倒されてしまいそうになる時間を過ごしている時に降る休息の様な優しい雨で、決して明日のグッゲンハイムに行く道のりを邪魔する事はなく、車が少し渋滞していてもガラスを伝う雨粒が大好きな私にとっては、かえってスローなスピードで変わりゆく様を眺められるおかげで、忙しいスケジュールで動いた日中から快適なホテルの部屋へと誘ってくれる素敵な雨だ。そう、雨の、水の、色の、心地の良いバランス。今、降ってくれている事がとてもいい感じな素敵な雨。

抽象作品というのは、こんな風に自由だ。ただの私の勝手な思考の飛躍でしかない。ただ、そう感じるのだから仕方がない。作家が何を思い、何を描いたのか確実な事は私にはわからない。
その話をしていてスタッフに「彼女の今回の絵には、タイトルがついているの?」と訪ねると、「はい」と言う。
「あの絵には、どんなタイトルがついているの?」
「ちょっとまってください、えーっとkirisameです」
これは、その絵から雨や水を感じた自分を自慢しているのではない。作家が過ごして来た時間と、私が過ごして来た時間は同じではない。ただ、少しだけ、ほんの少しだけ触れ合った様な偶然でしかない。タイトルは「kirisame」でも、彼女にとっての雨の景色と、私の勝手な妄想とは全く違うかもしれないのだから。
ただ、「kirisame」という抽象画を描いて、私の頭の中に水の音と過去に見た雨まじりの心地よい想い出を連想させるてくれる作家がいる事がとても嬉しい。
そうして明日見る時には、どんな風に思わせてくれるのかも、また、楽しい。

抽象画って、いいでしょ?

もちろん、抽象画だけじゃなくてどんな作品にも創造の翼をつける事が出来る。人の数だけ際限なく許される思考の飛躍。自由ってそういう感じ。彫刻でも音楽でも詩でもなんでも。
何にもないキャンバスや空間なんかに、いろんな思いをしながらこんなに素敵な物を生み出して私たちに見せてくれる。
いつも思う。本当に生み出してくれる人たちがいてくれて良かった。
じゃないと、生きる楽しみが大幅に減ってしまう。
私にとっては、意味さえなくなりそう。

私にとっては、意味さえなくなりそう。

Nov 19, 2018

ATP finals 2018

今年もシーズンが終わった。



AFPBB NEWS
今年のATP finalsは最初から変だった。
おまけに終わってみたら、ラウンドロビンから決勝まで、全試合ストレート。フルセットの試合が1つもなかったことに驚く。
こんなこと始まって以来なんじゃないだろうか。

フェデラーと錦織の初戦が終わったあと「世界一位になれる錦織が帰ってきた」とか興奮気味に言ってた、過去に世界46位になったことがある、自称「テニスの才能はなかったけど、解説の才能はある。なぜなら僕には確実に全てが見えるから」と今年からWOWOWの解説に加わった伊達公子にドヤ顔で言ってた人がいたが、あの試合を見てよくそんなことが言えたなと思う。

もちろん、錦織が勝つには勝ったけど、フェデラーも錦織も試合になってなかった。
サーフェスが合わないのかボールが苦手なのか、全くスイートスポットに当たってないし、最後まで変なリズムの試合だった。

なんだか、どの試合もたどたどしいラリーをする選手が多かったし、ハードコートなのにクレーコートで打ち合ってるような球種やコースを選択して打ち合ってるように見えた。

結局、特にファーストサーブの確率を上げて丁寧なラリー展開をした選手が勝っていった。その中でもサーシャは格別だった。あんなに落ち着いて最後まで冷静に戦ったサーシャを初めて見た。もちろん、才能がある選手だけど、いろんなタイプのトップ選手達と戦術的に勝った戦いができたせいで、準決勝のフェデラー、決勝でのジョコに対する試合運びは見事だった。
これからのサーシャにとって本当に価値のある1週間になったんだろうなと思った。

今まで「サーシャは、マスターズは獲れてもグランドスラムは獲れない」とか嫌味なこと、好き勝手に言われてたけど来年は頑張れるかも。

しかし、この間のカチャノフとの決勝の時と同じで、追い込まれた時のジョコビッチの態度はちょーっといただけない。パフォーマンスでもいいから、最後まで懸命にボールを追う姿を見せて欲しい。明らかに落ちてる態度を見せるのはなんだかね。ナダルだったらそんなことしない。負けるとしても綺麗に負けて欲しいな。

錦織がティエムに勝てなかったのは、もちろんファーストが入らなかったからとも言えるけど(そりゃ入った方が楽だけど、セカンドからでも十分展開できる彼でさえ)ティエムが前の2試合とハッキリと戦術を変えてきたせいだ。
このコートではハードヒットしまくっても勝ち目がないということに気づいたのか、ベースラインより下がって、まさにティエムが得意とするクレーコートでの戦いを展開してきた。もちろんファーストも前の2試合より確実に入れてきてた。

かわいそうに、ガットのテンションをコンマ単位で気にする錦織くんには、このコートやボールは苦手だったんだろうな。フェデラーも準決勝まで球を捉えることができてなかったくらいだから。でも偉いよ。右手首を怪我してから、ガットもガットのテンションも、サービスのフォームも変えたのに、ファイナルに出場するところまで来たなんて。
そう言えば、全てが見える人は錦織くんが30位前後に怪我で落ちた時「彼はこのままだと、あっという間に100位前後にどんどん落ちていきますよ。そしてそうなるともう20位以内には上がってこれなくなりますよ」って言ってたなあ。

ファイナルを制したズべレフはテニスもスピーチも偉い子だった。

毎回気になるのは、フェデラーとかデルポトロとかが出場する試合の時、サッカーのサポーターみたいな応援をするファンがいるけど、あれはちょっといただけない気がする。デ杯ならともかく、なんだかうるさい。
応援されたら嬉しいかもしれないけど、そういう人たちはなぜかブーイングも激しい。
テニスの試合にブーイングは似合わない。

おっと、今度は駒井哲郎と埴谷雄高について書こうかなー。



Nov 10, 2018

イースト菌とNetflix

この間まで、ちょーっと忙しかったから時間がなかったんだけど、最近、パン作りにはまっている。
機械は使わない。手ごねだ。全粒粉と強力粉のバランスを変えたり、水だけでこねるか、ミルクも入れるか、具材はなんにするか。
どのくらいの組み合わせがあるんだろう。
でも、一番気に入ってるのは、イーストでパンを発酵させる作業だ。

こねるのは、手に力が入らない時なんかは大変なんだけど、リハビリ?と筋力向上と思ってコネコネしてる。
コネコネしたら、いよいよ一次発酵だ。
イースト菌ってなんなんだ。どうしてぬるま湯と蜂蜜なんかで、イキイキと活動開始するんだ。
イースト菌、酵母菌って、菌っていう言葉がつくと顕微鏡写真を勝手に想像してしまうんだけど、世の中には良い菌と悪い菌がいるんだろうというくらいにしか考えないことにした。

あんまりすぐにググると、睫毛にはデモデスクというダニが、400万匹、それも一般成人の95パーセントの人にいるらしい。とかいう、おおっ!とのけぞるようなネタを拾ってしまうので、美味しいパンを作る菌は良い菌だという事で、深追いはやめておこう。

発酵を初めて40分ぐらいたつと、パンの生地が1.5倍くらいになって、手をかけると答えてくれるって素晴らしい。と一人、ほくそ笑んでしまう。
そんな時私の頭の中は、エルフのようなちっちゃくて可愛い妖精が、一生懸命プクプク泡を作っていくれている映像で満たされる。

何回もパンを焼いていて思う。
「手をかけたら、答えてくれる。」という事が最初は素直に嬉しかったんだけど、最近は、そんなことを思う自分がちょっとなって思ってしまう。
現実社会では「手をかけたら、答えてくれる」なんて実感が湧きにくいからなのか、イースト菌に癒しを求めてしまうなんて。
おまけに「手をかけたんだから、答えてくれ」と思う事自体、なんだかなあって。

ベンチタイムが終わって、具材を詰めたり形を変えたりして2次発酵。
焼き始めると、いい香り。うー天国だ。

パンを焼く作業には 「待ち」 の時間が多い。
せっかちなので、ちょっと前だったら発酵時間を待つなんてできなかった。考えるだけで、めんどくさくて嫌だった。
それが最近では、種子の発芽も待てるし、イースト菌の発酵も待てる。
秋の頃に植えたヒヤシンスの球根の先っぽに、緑のちっちゃな芽が出てる。
昔はなんであんなに、すべてのことに対して焦っていたんだろう。

仕事で関係してる人以外には、ほとんど会うことがないので、私が死んでるんじゃないかと思ってる人もいるみたい。

生きてるよ。

最近面白かったドラマは、Netflixの「The Haunting of Hill House」と「Happy!」「Stranger Things」どれも、なかなか面白いよ。
ドキュメンタリーでは「Wild Wild Country」こんな事件知らなかったから、びっくり。幸せなユートピア、誰もが楽しいパラダイス!を謳って自分たちの街を作るっていう荒唐無稽なのに本当にあった話っていうのが滑稽で悲しい。
「みんなが幸せならそれでいい」とか言ってたくせに、お金や裏切りが絡んでくると、隠してたはずの下世話な本性がみるみる顔を出す宗教団体のトップがあまりに惨めで、あーあ、やっぱりねって感じ。
むかーし私に「神様はお金、必要としませんから」と言った子がいた。その子は正しい。
おかげで、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」を再読。
そのドキュメンタリーはロバート・M・パーシグの「ある一人の人物が妄想にとりつかれているとき、それは精神異常と呼ばれる。 多くの人間が妄想にとりつかれているとき、それは宗教と呼ばれる」を思い出す。

昔はドラマ見る時間とかなかったのに、病人っていいよね。寝てなきゃいけない時は、ダラダラドラマ見ても罪悪感がないからさ。いいね。

大好きな人がいて、その人がハワイのお土産をくれた。ピンクのマカダミアナッツチョコ。ホテルの10月限定バーションらしい。
私が病気になってからも、さりげなく気遣いながらもずっと変わらずに接してくれる人の中の一人で、仕事でも必要に思ってくれる。おまけに、すごく頑張り屋さんだ。
昔よりも「必要とされる」ということを忘れそうで不安になる時、生きてる実感を取り戻させてくれる大切な人。

それと不思議なのは、ちょっときつくて、もういいやってなってる時(私も一応そうなる時はある)なぜかそういうタイミングの時にいつも便りをくれる人がいる。遠い空から「お元気ですか?」って。そして、彼女が頑張ってる姿を思うと、さっきまでウダウダ元気がなかったことが嘘みたいになっちゃう。ありがとう。みんなに勝手に頼ってるな、私。

変わっているようで、何にも変わっていない。そんな日々。
Nitto ATP Finalsも始まるしな。

そして、多分、また忙しくなる。きゃー。

季節の変わり目がはっきりしないし、年末っていう怒涛の時期に突入しそうだけど、とりあえずみんなも元気にお過ごしください。

喉がイガイガしたら、すぐにマヌカハニーを舐めるんだ。