Dec 26, 2012

余分な部分


もしも、お猿さんや魚から私達が出来上がってきたとしよう。
食べるためにという意識もなしに、お腹が空くからというはっきりした理由でもなしに、餓えを満たす行動をとっていた頃。
多分その頃、朝日に照らされたキラキラの草原や、昨日まで水の中から見あげていた揺らめく緑や空の青、漆黒の闇に浮かび上がる無数の輝く星や、逃げていくインパラの後ろ足の筋肉の動きを当たり前に存在するものとしてではなく、なんだかよくわからないのだけれど「綺麗だなあ」と感じるでもなしに心に響く思いが芽生えた人間が出現した時から、私達の存在価値が発生したんじゃないのかな。
仲間からは「そんな訳のわからないこと言ってないで、早く魚捕まえろよ!日が暮れるだろ!」って変な奴扱いされたかもしれないね。だけど、なんだか必要ないようで、ちょっとあったらいいなと思うようなささやかな余分。

絵を描く、詩を書く、意味もないのに綺麗な落葉を拾う。

例えば、木を組んだ上に平らな葉っぱなり板なりをのっけたり、山の麓の洞窟を見つけて「あー昨日より雨とか風とか寒さだとか暑さだとかが、なんだか和らいだ感じだ」と、住居の用な物を発見して心地よく感じているだけでも良かったのに「おっと、なんだか洞窟の入り口から差し込む光がとても綺麗」とか「この壁にインパラの姿を写し取ってみよう」とか「眠りにつく時、見上げる位置に夜空が見えたらなんて素敵」とか。

生きるという基本的な事イガイの脳みその余白に、ポッカリと満たされない穴があいて、どうやったら、いやどうやっても余分なナニカが感じとれるという事に、その頃の人は驚いたかもしれない。

文明だとか芸術だとか後から人間がつけた言葉が重要なわけじゃなく、心のその部分にすっと入り込んでくる何か。

多分、今もその頃と何も変わっていない。
何かを欲する時、その何かの種類が違ったり、満たされない穴の大きさが違ったり、それぞれだとは思う。

油断したら後ろから猛獣に襲われたりする世界に住んでいないから、その部分は弱くなってるかもしれない。だからこそ生きるという基本的な事イガイの部分が満たされるように過ごしていきたいし、いつも、見つけていきたいと思う。

ウルサイくらいに探し続けて、探し続けて。

そんな人達に、Galerie RECOLTEに遊びに行ったら、いつも何か面白い事があるね。って感じてもらえるような2013年にしよう。
だから、作家のみんなもそんな余分な部分を満たす事に協力してね。ここはみんなのソレがないとタダの空箱になっちゃうから。それにここでは生きる事の基本的な大部分をソッチのほうが占めてるから。

なくてもいいものだけど、なくてはならないもの。
そんな余分。

今年もありがとうございました。
来年もその次も、よろしくお願い致します。

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