久しぶりにウィリアム・ブレイクの本を引っ張り出して読んでいて、思った。ある作家の作品を見ていて、何かがひっかって、何かが足りない気がして、なんだろうと思いながら。
物事を選択したり、何かを表現したいと思ったとき、その始まりには「理由」があると思う。私はある。理由も、きっかけも、思い込みも、そこから広がるその先にもウルサイほどの自我が存在する。自分でコントロールして黙らせなくてはいけないくらいウルサイなにか。その訳のわからない何かを信じることが出来ないと、たちまち足元がぐらついて、自分の事がとてもくだらない人間に思えてしょうがなくなる。不安になる。
表現したい物がハッキリわからないんだ。
そう思った。表面的に「こんなことを表現したいんだなと思われる物」までは行き着いているのかもしれないけど、見るだけで溢れ出す物が何もないし、それも定かではない。こんな風にみられたいという作為が見えると、人も作品もたちまち魅力が失せる。中にはダマされる人もいるのだろうけど、それは同じような種類の人が見る虚しい誤解だ。
歌いたいように歌うんだ。描きたいように描くんだ。
かっこいい事を言うのは簡単だが、それが果たしてきちんと表現出来ていて、聞く人や見る人をねじ伏せるほどの迫力をともなって存在するのか。勘違いしている「歌いたいように」とか「描きたいように」は傍迷惑なだけ。
「歌いたいように」歌う人間や「描きたいように」描く人間が、周りの世界や生きてきた道すがらから、なにかしら自分の中の中で消化したものをどんな風に外にだすのか、何をもってして自分の唇や指先から生み出した物だと言い切れるのか。
ウィリアム・ブレイクは絵が下手だと言われることがある。実際、デッサン狂ってない?っていう絵も多い。ただ、そんな事はどうでもいい。何かが、彼の何かが魅力を放っていて目が離せない。考える。見る。触れる。思う。嘆く。笑う。死にたいほど憂う。そんな事の一つ一つが作品から滲み出す。紙切れに収まりきれずに叫んでいる。
そろそろ、それが出来ていい頃じゃないかと思ったり、そういえば出来る人は表現が稚拙でも初めから出来ているのになと思ったり。
靴を作るためにフィレンツェに行った日本の男性のドキュメンタリーを見た。イタリア語も出来ないし工房にもいれてもらえない。バイトしてお金を貯めて行ったのにお金はどんどんなくなるし、何日も1日卵1つで過ごした事もあった。と。
それでも、靴を作りたかっただけなんだ。作りたかっただけだといったら「物好きな奴だ」で終わらせる人もいるかも知れない。それなら普通の人が普通の努力で「作りたかっただけ」という理由でそこまで出来るのだろうか。そんな事に憧れてちょっと手を出した様な人間は沢山いるだろうし、出来なかったら辞めるだけだろうし、今の時代、海外にただ何かをしにちょっと行くことなんて別にたいしたことではない。その人はちゃんとその道で生き続けている。その人が作る靴をお金を払ってでも欲しいと第三者に思ってもらいながら。靴職人になりたいと思って、靴職人になった。
言い訳や出来ない理由を人のせいにしているようじゃ、どうにもこうにも駄目だ。
そこにいて、出来る範囲で生きて、一体、何をしているんだ。
そこからは何も生まれないよ。何もね。
甘えを捨てて、腹をくくれよ。
甘えを捨てて、腹をくくれよ。
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