Sep 19, 2021

終わりの始まり

 過ぎた事は1秒前のことでもやり直せない。

わかりきっていることだけど本当にそのことを日々意識して過ごしている人ってどのくらいいるんだろう。

だから賢い人は前もって計画なるものをきちんと立てて過ぎていく時間に挑んでいくのだろう。


偉いな


1秒が過ぎ、1時間が過ぎる。1日が過ぎ、一生が終わる。


怖いな


ベランダの鉢植えのシダは私が植えたものではない。あの鉢には名前は忘れたけれど花の少ない冬の時期に紫色の小さな花を咲かせる少しだけ背の高いお花を植えていたはず。

いくつかの冬をその花は彩ってくれていた。いつの頃か気づくと小さなシダが生えていて、今では青々としたシダが初めからそこにそうしてあったように群生している。そこだけまるで小さな南国のジャングルのようだ。あの紫色の花は影も形も無くなった。

それでもそれはとても素敵で風に揺れるさまは目に優しく、緩やかな動きを繰り返しては目に見えないはずの風を見せてくれる。


物事は変わる。変わっていく。


シダを見ているとそれも悪くないなと思う。変わることはなんだか怖いし悲しいことのように思っていた部分もあるけれど、それも悪くないなと思う。


最近ではそのシダの鉢になぜかポトスも伸びてきている。誰が?

ポトスの鉢は確かに部屋の中にはあるけれど、なぜここに?


一生懸命育ててる他の花はしょっちゅう不恰好になったり、なんだか元気がなくなったりするのに、その鉢はなぜか自然にかっこよくて。


自然の才能には勝てないな。


失敗しても間違ってもいいんだなと、改めて思う。

思うようにいかないことの方が多いとしても、結果オーライなら素敵なことだなと。

それでもいいんだ。


ちょっぴり時間を無駄にしたとしても、結果オーライならいいよね。


明日は母の命日だ。空が思いっきり高くてよく晴れた良い日だった。

お葬式の間Red House Paintersの曲を流していたな。Have you forgotten.

過ぎた一年をちょっぴり考える日、それは私にとって明日の日。

終わりの始まり

まあまあ頑張りましたと言えるように。




最近、Alec Benjaminのアルバムをよく聴いている。

初めて聴いた時は、映画「リプりー」のマット・デイモンが初めてチェット・ベイカーのマイ・ファニー・ヴァレンタインを聞いた時のように「歌っているのは男か女か、それもよくわからない」と思わす呟いた時と同じような気持ちになった。

曲も声も心地いい。散歩にもこんな天気の日にもよく似合います。




Apr 15, 2021

ヒスイカズラ

散歩道の桜は終わったけど、新しい緑がたくさん。

赤ちゃんが産まれたとかいうお話も聞いたりして、新しい命はどんな時でもこちらにまで幸せをくれる。

このご時世で死んだふりを決め込んで過ごしてやると思っていたし、私の場合病気になってからずっと今で言う緊急事態宣言のプロだから、あーもしかして私はもう世間から隔離されたズレた人間になってしまったのではなかろうかと思って過ごしていたのに、この状況が世間の普通になるなんて(外に出るときは一年中マスクして、不要不急の外出を避けて、人混みには行くな。消毒消毒!って。おまけに在宅ワーク。)思いもしなかった。夏にマスクしてると妙な視線をくれる人もいたけど、今では全然平気。まあ、重症化する可能性が高いからって前よりうるさく言われるようになったことは余計だけど。


花の写真を撮りに行った。久しぶりに開花の時期に自由の身だったから。


その花を初めて見たのはもう随分前のこと。それから大好きで毎年見るのを楽しみにしている。なのになぜか毎年その開花時期に病院にいた。


その花を初めて見たのは花の時期が終わってしまってその木の下に落ちていた花だった。その色に驚いた。ヒスイカズラの名前の通り淡い紫を抱えた透明な水色で自然界にある色とは思えない色をした花だと思った。一瞬でその色に恋をした。


その花を見ると思い出す女性がいる。

花とは直接関係はないのだけれど、私がその花の事を考え始める春の初めの頃いなくなってしまったからなのかもしれない。その後はその花と彼女のことを一緒に思い出すことを毎年繰り返している。


その花のことを考えると思い出す人がいる。その人はいつも穏やかで怒ったところなんて想像もできない。絵が好きで本が好きで文章が素敵だ。忙しい仕事をしているのに忙しいなんてことを口にしたこともなければ素振りをしたこともない。


彼女がいなくなった時、なぜかその人と話したくなって入院中の病院のベッドからメールをした。

その前からヒスイカズラの話をしていて、いつか写真を送りますと言っていたこともあって、今年も写真を撮りに行けませんでした。というお話と一緒に。


人をなくすことを普通の人よりたくさん経験しているその人は特別なことを大袈裟に言うでもなく、ヒスイカズラの花言葉を添えた返事をくれた。「私を忘れないで」


そう。そういう話をしたかったんだ。と深く思った。それだけで良かったんだ。


思い出の中に息づいてる大切な人、いつも会えるわけじゃないけどそんな風に心に深く棲んでくれている人。そんな人たちのおかげで結局はどんな時でも心穏やかに過ごせてる。些末なことで心を痛めても、世間とのズレで自分の感性からブレそうになっても本来の立ち位置に戻ることができる。自分がこうありたいと思う場所に。そんな人たちの存在がどれだけありがたいことなのか、こんな時期に改めて思う。そういうのって幸せだ。


その人がくれるカードの文字は、映画の中のデッキー・グリンリーフが書く文字のようにどの文字も線に接していない。


そこがまた興味を惹く。なんにしても知らない部分がある方がずっと魅力的だ。

好奇心を刺激し続けてくれる人や物は多いようで少ない。








Jun 29, 2019

院長大魔王


ちょっと時間が経ったから言えるんだけど、実は今回再発した時の初診で、院長にマジギレされた。本当に。

「いいですか?経過観察が大切だって言ってますよね。
その間のデータがこちらで取れてない時期があって、
最悪、再発しました。だから治してください・・・。

以前にもお話しした通り、こういうパターンで再発を繰り返す症例はないんです。
再発の原因もわからないし、再発にはこの治療しかないからやります。
けど、毎回毎回、これからもこの治療が効いてくれるっていう保証もないわけ。
この治療は体にも負担がかかるし、実際、もっと自分の病気を重篤なものだと捉えて、最悪なパターンもあるってことをきちんと自覚してください・・・」

大の大人になって、大の大人からこんなにストレートに、こんなに可愛い看護婦さんたちの前でマジで怒られるとは。

ちょっと忙しかったり気分がノらなかったりで、パスしちゃったことは謝る。
ほんと悪かった。

泣きそう。看護師さんがそっと背中さすってくれてるしー。
いつも飄々としてると思ってたのに、熱いやつだったんだね。
それに、そんなにはっきり理路整然と 立て板に水 みたいに話せるんだ。
いっつも、声ちっちゃいじゃん。

ごめん、ごめんなさい。

「いいですね、すぐ入院して治療開始しますので手続きに行ってください」

うわっ、怒られてる途中、もう見放されるんじゃないかと思った。
そんな不出来な奴は、他所へ行けって。
そのくらい、怖かったんですけど。

手続きに行く道すがら看護師さんが「大丈夫ですよ。院長先生たまーにですけど、はっきりものを言いすぎる時があって。心配されてるんですよ。あっ、でも、根に持つタイプではないですから」って。ネニモツタイプ。

あれっ、今、時間がたって冷静に文章にしてみると、結構、聞きづてならないフレーズがちょいちょい入ってる気もするけど、まあ、いいや。そこは深く考えないようにしよう。
今回も治療は効いてるみたいだし。

だから、真面目に来ます。約束します。
と、ここに高らかに宣言しようと思う。

それに「ごめんなさい」しちゃったしな。
ちっちゃい頃から「ごめんなさい」する時は「もう2度としません」って言う覚悟と約束をしながらじゃなかったらしなくていい。
それができないんだったら簡単に「ごめんなさい」するな。
って、お父さんに言われてたからな。
幼稚園では先生から「絶対謝らない意固地で生意気なガキ」(もっと言い方はメロウ)とお母さんに告げ口された。
別に大したイタズラしてないし。謝るほどでもないし、またやるし。

みんなももしも病気になっちゃったりしたら、先生の言うことちゃんと聞いてね。
私の先生はとてもいい先生です。












Jun 28, 2019

その少女たちは真っ直ぐな瞳をしている。

最近、というかここ最近、見るたびにいい顔になるなあと思う少女たちがいる。

その人の絵を初めて見せてもらったのは、もう何年か前になる。
Tokay Gecko に出してきてくれて、個展もやってくれた。
その時の女の子たちは、将来が定まらずにフワフワで、描かれている少女たちの世代そのままに思春期真っ只中って感じだった。

思春期特有の危なっかしさと、根拠のない自信をまとって、なのに、ちょっとだけどうしていいかわからない戸惑いと不安を漂わせていた。

実際の絵は見れないのだけれど、ずっと画像で追っていると、いつからか行き先がはっきりして自信を持ち、余裕が出てきて、強い真っ直ぐな瞳を持った少女たちが存在するようになった。ここ最近は特に。

きっと生み出してくれるお母さんが、いろんな人に見てもらっていくうちに間違いなくついた自信と方向性が出てきたんだと思う。

颯爽と、凛として、潔く、どこにでも旅立てる目をした少女たち。

描かれたモチーフはなんでもいい。マルでもシカクでも。犬でも猫でも。
そこじゃないんだ。感じるところはそこじゃないんだ。
そこだけ見ててもなにも見えてこない。

そう、そしていい作品は描いた人から軽々と旅立っていく。
いい作品の周りには、自分以外の人の力も自然と集まってくる。
生み出した人の手にも追えないくらい、きちんと一人歩きできる。
と、私は思っている。

絵の世界を開店休業している私が、なんだかんだ言ってもおこがましいだけなのだけど、その人の絵をこれからも出来ればこっそり見ていきたいなと思う。


たまには大好きな絵の世界のこと、ちょっとだけ言わせてくださいな。

Jun 25, 2019

ヤッホー


また入院。再発。
この前の治療が201711月だったから、今回は2年持たなかったね。

書いててふと気づいたんだけど、2017年の初夏は最初の治療から「やっておけば、2年は再発しないでしょう」って言われて、4年経ってたから上出来だったわけで、なぜその後、同じ秋にソッコー再発したかっていうと、その夏にレクターが私を置いて行っちゃったんだよね。あいつはいつもそばにいてお話もよく聞いてくれてたんだけど、私が「ずっと一緒にいようねー」っていう時だけ、ちょっと悲しそうに目をそらす癖があったんだ。
出来ない約束はしないよって言ってるみたいに。おまけにちっとも迷惑かけなかった。少し目を離したすきにそっと行った。私だけ往生際が悪かった。

もしかして、実は根性なしなんだろうか。私。

今年の初め、大好きな友達に「今年は去年より元気な感じですので、ちょっぴり活動的な日々を送りたいと思っています。会える日を楽しみにしています」って、メッセージして、「私もお会いできるのを楽しみにしています!」とかなんとか言ってワクワクしてたのに、会えなくなっちゃった。

年が明けてからもなんだか忙しかった。
たくさんデザインしたり、たくさん物を作ったり、いろんなところに飾ってもらったり、バタバタと元気だった。


春先になって、地獄を見た。
立てなくなった。右手が動かなくなった。ふふっ。
それはなんとかしのいだけど、今度は以前と同じ嫌な感じの「あーそれはダメですねえっ、病院行きですよー」ってところが再発した。

原因不明だから、摂生してストレスを避けてって言われ続けてるけど、難しいよ、それって。
摂生、摂生って、タバコも吸わないし、お酒も飲まないし、深夜のラーメンとか脂っこいものとか食べないし、自炊するし、外食する時も別に変なものは食べないし、あと何? チョコは食べるよ。だから?

それに、普通の人のどのくらいがやりすぎで、私のどのくらいがやりすぎなのかもわからないし、いろんなこと途中で辞めれる?最後までやるよね。
だってやろうと思えばできるんだもん。なんだって。
そのあと、ちょーっとおっとおあれれって、動けなくなるだけでさ。
わからないよ。ストレスって、どれよ。どんな時よ。
シルクのシャツを普通洗いで洗っちゃた時とか、買ったばかりの靴のかかとの皮が剥けた時とか、アイスの新作が期待外れだった時とか。それもそうなのか?
あっ、じゃあカフェのちっこいテーブルの脚がカップ置く度にガタガタする時。これはハッキリとストレスだと感じる。

色々調子に乗ってやりすぎたのかなあ。
ほんとに今年は調子がいい感じがしたんだよね。
ううん、本当はちょっとそれもあるし、それもまた違うかも。

死ぬほど悲しいことがあって、自分でも恐ろしいくらい対処できなかった。
心がちぎれて、拾い集めても拾い集めても、集める側からこぼれ落ちていく。

足元が、ふわりと捉えどころがなくて、部屋の隅々に悲しみが積もって、夜の大好きだったはずの時間になると、その隅っこからまるでラッピングされるように積もった悲しみが包み込んでくる。

何もしてない時が、お風呂に入っている時が、油断してる時が一番危なくて、気づかないうちにボロボロ泣いてて、久しぶりにというか、母が亡くなった時ぶりに父に涙を見せた。泣いてお話をした。

怖かった。何かが、何かはよくわからないけど、心から怖かった。
生まれて初めての感じだった。

死ぬほど悲しいことがあって、って書いたけど、人なんて簡単に死なない。特に私は死ぬことがというか、自分が自分じゃなくなって無になるということをまだ受け入れられてないから、ジタバタするくらい怖い。
ということだからか、再発という形をとることで死ななくて済んだと思うと、ラッキーなんだと思う。
死ぬ勇気はない。そこんところはたいそう弱虫だから。

その悲しい出来事を受け止めた形が再発の一つカケラだとしたら、なんだか嬉しい。
それなら甘んじて受けようではないか。
そして、復活しよう!今度はなるだけ長く!

とか言って、ただのそういう周期なだけで、なんてことないのかも。
みんな、家族が大変な病気になったり、予期せぬことに見舞われたり、生きてれば色々あるのにちゃんと辛くても頑張ってるもんね。偉いよな。ままならないな。

やっぱただの根性なしなのかなあ。
でも、根性って言葉もなんだかなあ。令和だし。

だけど、私は忘れないでいよう。
私なんかとはくらべ物にならない程の、喪失感と悲しみを抱えている人が他にも確かにいるってことを。
癒えるはずもないけれど、どうか、少しでもと。


Jun 23, 2019

自由な死について



多くのものはあまりに遅く死ぬ。ある者たちはあまりに早く死ぬ。「死ぬべき時に死ね」という教えはまだ耳慣れまい。死ぬべき時に死ね。ツァラトゥストラはそう教える。むろん、生きるべき時に生きなかった者が、どうして死ぬべき時に死ねよう。そのような者は生まれて来なければよかった。わたしは余計な者たちにそう説く。

ここだけ読むと、言葉の強さから拒否反応を示す人もいるだろう。
死ぬ 死ね という言葉は使ってしまうと罪悪感を伴う恐怖を感じる。

生きるべき時に生きなかった者が、どうして死ぬべき時に死ねよう。

その言葉だけで語るとしたら(もちろんこちらからしたら、勝手にものすごく哀しくてしょうがないのだけれど)もしも早くに死んでしまったとしても、それは、生きるべき時に生きたから、そうしたら死ぬべき時(そんな時があるのかどうかは別にして)に死ねたんだってことでいいんだよね。

生まれることも、死ぬことも 基本、自分ではどうにもできない。

ただ、物心がつく頃まで生きると、なんだか生きるべき時が嫌でもやってくる。
いろんなしがらみや生きにくさも同時に訪れるけれど、そんな事は、生きるべき時に「これは、生きてみるしかなさそうだな」と腹をくくれば、時が経てば笑い話か、記憶さえあやふやな過ぎ去った日々の天気の様なものだ。

遠足の日の雨を覚えていても、それが記憶となった今、その時の雨とは違った雨に見えるはず。
きっとその遠足をすごく楽しみにしていたのなら、すごく嫌な雨だったよね。なのに、過ぎちゃった。それにそのあと、デートの時に好きな人との距離を少しだけ近づけてくれる優しい雨が降ることもあることを知った。そう、生きてきたから。
だから、次の雨がどんなに嫌な雨だったとしても、素敵な雨も降ることを知っていれば、きっと大丈夫。

ツァラトゥストラは、この時点ではなんだか優しい。
その事を、余計な者たちに説いている。説こうとしている。
人が生きていくうえで、取り返しのつかないことにならない様にしてあげたいという、愛を感じる。

私だったら、自分で決めたわけでもないのに、気がつくと生きていかなければならないことになってしまった時、そしてそこから時間を過ごしてきた時、自分でその事に考えが至らなかった人に、そんな事をわざわざ話そうとは思わない。

最近思う。
誰かが亡くなった時、ある人はすぐにその理由を聞きたがるけれど、亡くなった人が生きてきた理由は聞きもしない。
そんな人に、どう答えればいい?
はっきりと目に見える事実は「もうここにいないの」という事。
それしかない。

それより、その人が存在したときのことを話そうよ。
あんな風に笑ったとか、あんなところがドジだったとか、あんなにも素敵な絵を描いたとか。声が好きだったとか。
乾ききることが難しいカサブタなのに、何回剥がせば気がすむんだ。
その度に、血を流し続けるしかないじゃないか。

答える方もほとんどの場合、亡くなった理由は(それが事実かどうかな別にして)口にしやすいが、その人が生きてきた理由を上手く伝えることが出来ない。

そして、その人が存在した理由を見出せないのなら、世間話のついでみたいに口にしないで。いなくなった時点から時が過ぎ、今になって、どうして?って聞かなくちゃいけない立場だとしたら、故人からすると知る必要はない人ってことだと思う。

人が死ぬことに対して鈍感な人もいる。本当に興味がないのか、怖いからなるだけ触れないようにしたいのか、その理由はよくわからないのだけれど。
「明日の天気、どうよ?」っていうくらい簡単に「どうして死んだのよ?」「何が原因?」「病気なの?」って。
達観してるのか、バカなのか、どっちだろう。

そういう人は簡単に「人はどうせ死ぬために生きてるんだから。」とかどっかで聞きかじった受け売りであろう言葉を平気で使う。

人は死ぬためになんか生きてないよ。生きるために生きて、生きて、だから苦しんだり、喜んだりして。
ただ、どんな旅にも終わりがあるだけ。

それに、その旅の終わりを経験した人が、のちに私たちに「あのね、旅の終わりはこうだったよ」とか「次の旅が始まるよ」とか話してくれる機会がないから、ちょっぴり不安だったり寂しかったり、自分ではどうにもできないだけ。

だから、自分でちょっとでもどうにかできそうかなって時を、生きるために生きるしかない。

君が死んだ時は、旅行に行った時の馬鹿話とか、面白くなかった映画を見た話とかのついでに、「で、あいつ死んだんだって? なんでよ? どうしてよ?」「まあ、実は全く興味ないんだけど。」って言ってやるよ。
って思っちゃうくらい、腹立たしかったんだ。口悪くてごめん。
そんなこと言わないよ。

この曲、可愛いよ☆




Mar 11, 2019

思考の飛躍 2019311

改めて思う存分今回の彼女の作品をながめていて、ふと水の音が聞こえてきそうな作品をみつけた。私にはその絵が、遠くから見ると雨に降られて観光客もまばらになり、回廊にあるカフェの光が淡く遠く弱々しく映っているベニスのサンマルコ広場の石畳を思い出させ、近くで見ると雨には変わりはないのだが、それこそ午後のNYの少し混雑したアベニューをホテルに向かうタクシーの座席からガラス越しに見える曇っているのに少し明るいあの空と、雨のせいか少しうつむき加減に急ぎ足で行き過ぎるいろんな国の人々、そして、雑多な色の広告もネオンサインも雨のベールを纏ったガラスごしにちょっぴりぼやけてしまっていて、少しずつ進む車の速度と、あまり早くない定期的なワイパーが揺れるごとにデザインを変えて、流れたりとどまったりしている。そんな事を思い出させる。


しかし、その雨は雨だからといって少しも嫌な訳ではなく、例えば、最愛の国ベニスに滞在している時の心地よい異邦人感覚と、いにしえの美術品や建物に囲まれて、感慨深く、何度来ても時の流れの膨大さに圧倒されてしまいそうになる時間を過ごしている時に降る休息の様な優しい雨で、決して明日のグッゲンハイムに行く道のりを邪魔する事はなく、車が少し渋滞していてもガラスを伝う雨粒が大好きな私にとっては、かえってスローなスピードで変わりゆく様を眺められるおかげで、忙しいスケジュールで動いた日中から快適なホテルの部屋へと誘ってくれる素敵な雨だ。そう、雨の、水の、色の、心地の良いバランス。今、降ってくれている事がとてもいい感じな素敵な雨。

抽象作品というのは、こんな風に自由だ。ただの私の勝手な思考の飛躍でしかない。ただ、そう感じるのだから仕方がない。作家が何を思い、何を描いたのか確実な事は私にはわからない。
その話をしていてスタッフに「彼女の今回の絵には、タイトルがついているの?」と訪ねると、「はい」と言う。
「あの絵には、どんなタイトルがついているの?」
「ちょっとまってください、えーっとkirisameです」
これは、その絵から雨や水を感じた自分を自慢しているのではない。作家が過ごして来た時間と、私が過ごして来た時間は同じではない。ただ、少しだけ、ほんの少しだけ触れ合った様な偶然でしかない。タイトルは「kirisame」でも、彼女にとっての雨の景色と、私の勝手な妄想とは全く違うかもしれないのだから。
ただ、「kirisame」という抽象画を描いて、私の頭の中に水の音と過去に見た雨まじりの心地よい想い出を連想させるてくれる作家がいる事がとても嬉しい。
そうして明日見る時には、どんな風に思わせてくれるのかも、また、楽しい。

抽象画って、いいでしょ?

もちろん、抽象画だけじゃなくてどんな作品にも創造の翼をつける事が出来る。人の数だけ際限なく許される思考の飛躍。自由ってそういう感じ。彫刻でも音楽でも詩でもなんでも。
何にもないキャンバスや空間なんかに、いろんな思いをしながらこんなに素敵な物を生み出して私たちに見せてくれる。
いつも思う。本当に生み出してくれる人たちがいてくれて良かった。
じゃないと、生きる楽しみが大幅に減ってしまう。
私にとっては、意味さえなくなりそう。

私にとっては、意味さえなくなりそう。