Oct 14, 2010

アルチューロ・ビネウスキ

例えば作品を作るとして、絵でも文章でも音楽でもなんでもいい。

依頼されて作るとする。自分以外の人のイメージを構築するための何かとか。

その場合、明確なビジョンが必要となるだけ難しいだろうし、企画力や洞察力が断然必要とされた上、センス(人によって千差万別だから困るし、最終ターゲットにそれを受け取る状況があるとは限らないので、これまた厄介)まで発揮しなければならないから大変。

たまーに、名前が先に出ちゃってるから(過去の仕事などで)「あーあの人がやったのね。ははん、だから今はこういうのが流行ってるんだあ」ってな風にやさしく大衆に甘やかされてラッキーだなあ、なんてモノも出来上がってお披露目されている場合もある。
しかし、ちょっと前よりそういうことに興味を持つ人達が増えてる気もするし、いかんせん、自分の意見をすぐに配信出来たり、他人の意見をすぐにのぞき見出来る世界が簡単に広がりつつある今、そのラッキーにあぐらをかいていると、「いくらあの人(あのデザイナーでもなんでもいい)がやったとはいえ、的外れじゃない?」って、なっちゃう。

じゃあ、勝手に制作していい「絵」や「音楽」はどうだろう?
それも、まだまだ未熟でいまが発展状態っていうくらいの。
作品を作る事に対して「あなたらしさ」しか必要ないとしたら。
これもまた難しいよね。「自分らしさ」なんて。

でも、どちらにしても結局出来上がって発表してしまったら、見る側、聞く側、使う側なんかの「感情の操作」なり「評価の操作」なりは、よっぽど影響力がない限り出来ないんだから(才能なんかなくても、お金や環境やお上手がそれをなし得る世界がないとは言わないけど)それは置いといて、その人がその人なりに作ったもの(どれだけ考えて、どれだけ試作して、どんな風にリサーチして、どれだけ私利私欲を混ぜ込んで)で勝負するしかなくなるんだと思う。

[自分のありきたりの正常性があまりにもはっきりしていて、何の役にも立たないから、なんとかしてそこから逃れようとする連中。そういう奴らは何かと派手に暴れては、その時々の流行にのって、自分のオリジナリティを主張する。脳みそやら才能やら多数派に無関心だってことやらを声高に宣言して、必死で自分の平凡さを否定しようとする。そういうのがアーティストとかパフォーマーとか、冒険家とか快楽主義者とかって連中だ。
それから、自分自身の奇妙さを感じ取って、それに怯えてしまう奴らもいる。そいつらは正常性を求める。他人から正常と見えない度合いに、あるいは逸脱がもう存在しないと自分に言い聞かせなきゃいけない度合いに応じて、そいつらの苦痛は始まる。そういうのが本当のフリークだ。ほとんどいつも、ごく当たり前で、退屈にしか見えない奴が。](アルチューロ・ビネウスキ)

突き詰めれば、やっぱ行くところまでいくさ。

絵が描ける。音楽が作れる。彫刻が作れる。心臓移植が出来る。花を上手に育てることができる。疑問を疑問にしておけない。靴下を左からしか履かない。足が一本。指に水かきがある。空を飛べる。なんと今書いたことが全部あてはまる。

どれも「基準」や「それが属する世界」を変えれば特別なようで特別じゃない。自分じゃない方の世界を牛耳るのは難しい。
でも、「考え方」や「感じ方」みたいにこっちサイドの範囲内で変えちゃえば、どれだってとても素敵に出来る。
もちろん、自分の中のなにかを変える事って嫌だったりもするから、大変だったりもするけど、所詮自分の範囲内だ。そんなに嫌だったらやめちゃえばいい。
結局、自分の世界をいじくって楽しんでく(苦しんだとしても)しかないんじゃないかと。
そうやって自分の世界でなんだかんだしてたら出来ちゃったものが「絵」だったり「立体物」だったり、なんだか芸術でくくれそうなものだったら、私に見せて欲しいなあ。
それが多分、私にとっては「特別」だから。

それ以外はあんまり見たくない。見ると悲しくなるから。

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