「欲しいもの」とか「なりたいもの」とか、まあ、「行きたいところ」でもいい。それか、「失ってしまった物で、取り戻せるなら取り戻したいもの」(この場合、人でも時間でも何でもいいとする)を、復元もしくはもう一度手に入れられる等の希望が満たされるとしたら、どのくらいの犠牲が払える物だろう?
目の前に「必ず君の希望をかなえてあげるよ。」と、悪魔っていうか、この場合私には神様も同じ種類に思えるので、どっちでも想像してもらうとして「さて、で、君は私に何を差し出すのかね?」って言われたら、どうする?
「人魚姫」も「赤い靴」も「ラプンツェル」も、引き換えるものが自分の一番大切な物だった。「賢者の贈り物」はまだいいよね、その後にお互いと愛がそのときは残るから。思うに、挙げたお話からすると普通の愛を手に入れる為に手放すものってそんなに大切な物じゃなくても良くて、魚と人とかっていうとてつもない距離があると命がけって感じか。まあ、大切な物は人それぞれだからな。
秒単位で失い続けてる時間への執着はなかなかわかないけど、あの時あった事とか、絶対行きたい場所とか、どうしても手に入れたい未来とか、そんな事には右往左往するって所がなんだかなあと思ってしまって。
記憶と欲望と焦燥と憧れと。なんだかんだ言ったって、見えないものだらけ。他人も世界もなんら関係ない部分。人間を形成している大部分は確証が持てない物ばかりだなって。
なんだか、自分が自分でないように感じるし、今が今でないようにも感じるし、それでも「なにか」がないと生きてる感じすらなくなる。
好きな物とか嫌いな物とかそんなのどこから来るのか。
不思議なのは、夢や希望を叶える事がものすごくものすごく大切に思えたとして、だからって、今持ってる大切な物とか大切な人とかを変わりに差し出すとしたら、それはそれで非常に難しいと思ってしまう。
結局、日々の努力とか毎日の精進とかで手に入れるしかないものっていうのは、それで手に入るなら良しとしよう!って事になるんだろうな。
果たして、本当に難しいのだろうか?本当に叶えたいのだろうか?
どちらにせよ、同じ事のように思えてくる。
おっと、とりとめがなくなってきた。
Only as sure as I am that the reality of one night - let alone that of a whole lifetime - can ever be the whole truth.
Oct 5, 2010
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment