私がおもちゃやさんにいって、おもちゃを買ったとすると、多分だいたいは、その玩具の所有権は私にある気がする。誕生日にお母さんがケーキを焼いてくれて「おめでとう。」と言ってくれたら、そのケーキをぜーんぶ食べたって、多分いいんだと思う。まあ、もちろん、弟にも分けてあげるけど。
子供の頃から、”そこに、知らないうちにある価値のありそうな欲しいもの”を「私のものだ!」「いや、私んだ!」といって、他の子供や他の大人と取り合いをした経験を持たない。それがダイアモンドの原石かもしれない石コロだとしても、自分のものだ!っていう確信や理由がはっきりしてない限り、ちょっぴり欲しいなあって思ったとしても、主張したりしないし、本当に欲しいんだったら、どうしたら手に入るのか、例えば、持ち主と主張する人がいたら、その人に聞いてみるとか、お金を払うとか、何かと交換する?とか、頼んでみるとかすると思う。
家族や周りの人のおかげで幸せに暮らせてきた事をありがたいと思う。
大多数の人はそんな風に、暮らしてこれたんだと思う。
これが、守ってくれる人もいなくて、人のものでもなんでも自分のものにして、自分が生きる事に必死な環境で、何としても生き抜きたい!と思いながら暮らさなきゃいけない状況を経験したり、もしかしたら、両親やもっともっと遠い昔からそんな風に教えられて来たりしたんだとしたら、手にした(実はそのように見えるものってだけでも)価値のあるものを容易に諦めるはずがない。
どこに生まれて、どんな生き方をするのかは誰にもわからない。
環境が変わっていたら、私も、人のものかもしれないものを平気で取り上げて苦しめるかもしれない。
ただ、環境や人間性やもっとおっきな違いがある人やモノたちが、ひとつの星で暮らさなきゃいけないんだからこそ、ルールってものがあるんじゃないかと思う。そのために頭のイイ人と言われる人たちが、知恵を絞って決めた決まりがあるんじゃないかと思う。
それを守らないんだったら、作ってもしょうがない。もしも、赤信号で渡っちゃったら「ごめんなさい」って、反省するしかないし、子供が平気で無視して渡ってたら「コラーッ!」って怒っとかないと、後から大変なことになるかもしれないし、危ないから、だめだよねえ。でも、緊急事態の救急車は注意しながら渡っていいんだし、そういう状況を見て、目くじら立てて怒る人はいないんじゃないかなと思う。
ルールでも約束でも、最後には人と人のコミュニケーションや、その時の本当の状況を「説明する努力」と「分かり合える努力」をすれば、お互いに納得出来る解決策に近づく事が出来るんじゃないかと、ぬくぬく育ったあまちゃんは思う。
でも、本当に大切なものを守るためだったら、戦えるよ。
ただ、それを「モノ」や「場所」に見出す事は私にはない。
それは、はじめから「なくして困るもの」じゃないから。痛いほどの「なくす痛み」はそんなものには変えられないから。
でも、それも、哀しいかな、記憶と経験の個人的感傷でしかないんだよね。全部はじめから無かったようなもので、最後には全部抱えて忘れていくものに過ぎないし。でも、意識があるうちは、せめて、ねえ。
Sep 27, 2010
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