トルコの人は4−5ヶ国語話せる人が多くいるらしい。
何かで読んだのだが、語学が堪能であるにはいろんな訳があると。
その人が言うには、「例えば日本の人だったら、困ったら周りの人が助けてくれたり、最悪、国とかも助けたりしてくれる。けれど、トルコでは自分のことは自分で守るしかないから努力するんだ。」みたいな。
偉いなあ。なんて感動する人もいるかもしれない。し、実際、ものすごく感動して言葉にならなかった。なんていう人もいた。
でも、どこにいたって、どんな環境だって、努力できることがあって、努力をすればなんとかなる世界なら、幸せな世界の部類に入るんじゃないかと、私は思う。
感動したりする心は大切。とても大切。でも、自分のたってる場所から他の人の立ってる場所を見たときに、高低差があるからできるような感動は本物かどうかわからない。感動に似た同情だったりする。事もあるんじゃないかな。
どこでもいっしょさ。生きていくことに「大変」も「大変じゃない」もない。なんておもう。
どっかでだれかがうまくやってるんでしょ?そう、どっかで誰かがうまくやってるんだよ。
日本にだって、体力的にとか年齢的にとかものすごく大変で、努力したくても出来ない人もいたりする。でも、他人にどう映ろうときっと出来る努力はみんなやってるんだと思う。
不思議に思う。
身近にも、たくさんの困っている人とか、なんとかならないかな?っていう物事とが存在する。でも、遠い国の飢餓とか病気とか貧困とかはすごく悲しい出来事で可哀想なことで、いや、もちろんそんな気持ちを持つことは、自然で当然だとおもう。でも、なんだか私は、道端で道を渡れないお年寄りとか、小さい子供の手を引いて荷物に押しつぶされそうになってるお母さんとか、エスカレーターに乗るタイミングがわからなくてお母さんに置いて行かれそうになって半泣きになってる男の子とか、そんな日常の方が、気になってしまう。
それならすぐに手伝いができる。
ものすごく「ちんまり」としたことだけど。
その「ちんまり」をたくさん集めてもだめ?
それじゃ感動はないか。まあ、私は嬉しいんだけどね。
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