Oct 1, 2015

想像力ってどこから来るんだろう?

最近、WEB SHOPの作品たちを紹介(っていうか、好き勝手に書いてるだけだけど)したりしてるけど、改めて一つ一つと向き合ってみるとなんだかこんなにも愛しいものかと思えてならない。
曲がった線や選ばれた色、紙の手触りや表面の凹凸。なんか変な匂い。
今までも、普通の人よりたくさんの作品に触れてきたと思っていたけど、触れるのと感じるということは違うことなんだと思う。

マティスの装画本 JAZZ を手にとって見たとき、今まで画集で見ていたものの発色との違いに驚いた。一枚一枚手にとって見ていくうちに見えない色が溢れてきた。どんなにいい印刷でも出せない色がそこにはあった。
深くて美しい青、マゼンダに限りなくちかいピンク、暖かみがある黄色。版画だから、重なった色の違いによって一番上が同じ色でも全然違う。晩年、目がよくない状態でも制作を続けたマティスの気持ちがわかる気がする。こういうと、つらかっただろうなと思うってつながりそうだけど、実は違う。

私が思うに、ちっとも悲観的ではなかったはず。目が見えなくなる現実、老いていく現実、そんなものはただ過ぎていく現実にすぎない。そのままその現実に立ち止まってしまうと、次に歩き出すときに、そこから歩いていかなくてはいけない。気分が落ちたままだと、次もその地点からのはじまりになる。

人はみんなとりあえず同じゴールに歩いていく。歩き方が遅くても早くても避けられないものは、避けられない。その途中なにがしかの不具合も出るだろう。
ただ、私の場合は、作品を見てなんだかんだ考えている時、それについて何か伝えたくてカタカタキーボードを打っている時、言いたいことが次から次に溢れてきて、一人で勝手に楽しんでる時、作家の人からの「次の個展です」のメールを受け取るとき、その歩みは一番楽しかった時まで、一気に駆け戻っていく。自分ではどうすることもできない現実の不安や暗がりが、その勢いに突き飛ばされて、全部なくなっていく。一瞬で忘れてしまう。気にならなくなる。

毎日そうやって歩き始めの位置をリセットしている。だからある現実の一部のせいでどんどん落ち込まなくてすむ。忘れてた、全然平気と思える。

私が作品オタクだからと思う人もいるかもしれないね。でも、絵でも音楽でもなんだか人が作ったものからは何かがもらえるよ。

青一色で描かれた大きな楽しげなダンス。白い鳥がのびのびと飛ぶ青い空。細かな絵が描けないなら、色を切り取って貼っちゃえばいい。自然から受ける感覚、感触を「見る」という視覚に頼る間接的な行為ではなく、花や植物、鳥や空気から感じるなにかを直接受け取りながら、作品にしていったんだと思う。

人間の脳の中の働きは、ある程度分かっている部分があっても、確実に隅々までは理解されていない。覗き込もうとすればするほど深淵に落ちていく。そう感じる時、いつも私は宇宙に似てると思う。確かに存在するのに全部理解することができない。子供の頃から答えを探している、ある種類のもどかしさ。

宇宙の果てはどこにある?人は死んだらどうなる?絶対死ぬことが決められているのにどうして生まれてくる?なくなってしまうだけなのに、どうしようもない自我というものがあるのはなぜ?私ってなに?

「人間の想像力は単なる絵空事ではなくて、
 人の心が描いたものは必ず実現する、
 そのために神は想像力を与えた」
宇宙物理学者 フリーマン・ダイソン



マティスが自然や花や鳥を、理屈抜きの感触で捉えて作品に変えていけたように、作品を感じられるようになりたい。

No comments: