それは簡単で、彼の絵は私の目の前に出来てくる時は全く潔く完結しているからだ。
これは、初めて見た時からの変わらない印象だ。
最近、ますますその傾向が強い。
どんなモチーフが描かれていようと、どんな色が使われていようと彼の絵の根底にはいつも同じ物がある。
どんな状況でも、何があっても崩れない部分。
今回の個展の中に、私がこれまで見た彼の絵の中でもしかしたら一番と言っていいくらい好きな絵がある。
それはすでに「そだきよし」という作家個人が描いた絵だという認識さえ感じさせない。分かりにくいかもしれないが、いい作品が「ただそこにある」という感じ。
それは例えば、美術館に足を運んだとする。
いろいろな作品が沢山展示されているが、そこで見るものは、もしかしたら知っている作家の絵だったり全然知らない作家の絵だったりするだろう。
知っているというのは、知識として知っているというレベルで、ピカソにもウォーホルにも実際に会った事があるわけではない、ただ「識っている」だ。
「そだきよし」の事は、個人的に知っている。10年くらい知っている。沢山話をしたり、海外で一緒に過ごしたり、映画を見たり、音楽の話をしたり、悔しそうな姿をみたり、一人で耐えてる姿をみたり、時には一緒に喜んだり、他人の中では、私の中では結構見て来たつもりだ。
そう、少しかもしれないが「知っている人間」だ。
なのにその絵は美術館で見るそれと同じで、私が少し知っている「そだきよし」が描いた絵ではない。
名前だけ知っているある作家が描いた絵のようだ。
作品というのは人が目にする時には完結していて当然だ。
当然だけど、それが出来る作家は少ない。
説明や言い訳が漂っていて、時には実際描かれている物がただの黒い◯だけだとしてもうるさいくらいの絵もある。
なのに作家が違うと同じ黒い◯なのに「意味もなくいいな」と思わせる絵もある。
私にとってもっとも鬱陶しいのは、見る側に「見方や感じ方を要求する」絵だ。キャプションやタイトルは当然別として、必要もないのに説明書を添付してくるような作品は勘弁してほしい。
この絵は「こういう思いで描かれました」とか「この作品が言いたい事はこういう事です」とか。
聞いてもないのに。
立場が違ったり、状況が違ったら必要な時もあるかもしれない。
だけど、ここで、ここに展示する作品には必要ない。
特に、私には全然必要ない。
説明されればされるほど馬鹿にされてるのかと思う。
絵を見ればわかる。
だから「絵を見ればわかる絵」を描いてくれる作家が大好きだ。
だから「そだきよし」の絵が好きだ。
ちっとも、少しもうるさくない。
描きたいから描いたただそれだけの絵。
簡単じゃない。
Nov 8, 2011
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