世の中が音楽を必要としなくなり・・・。
という遺書が残されていたそうだ。
世の中が、本物の音楽を必要としなくなり、なのか、自分の音楽を必要としなくなり、なのかはわからない。
ありがたい事に、仕事柄いろんな作品を見せてもらえる。
プロになりたい人や、大御所や、亡くなった人も含めて。
自分の判断基準を疑ってしまう時もある。
「私は、その絵を見てこう判断する」という事しか出来ないという事はわかっているのだが、「それが、その作品の全てなのか」と言われると、わからない。
いや、嘘だ。ほんとはわかっている。ただ、押し付ける事は出来ない。
「わかる」なんて言ったら誤解されるかもしれない。
でも、しょうがない。
どうなるのか、どうすればいいのか。
何が足りないのか、多すぎるのか。
これは、美術の先生が教えてくれる事ではなく、何て言うか、その作品がその作品らしく生き延びるために必要な事。
作品にはそれ自体が語りかけてくる作家の枠を超えたメッセージがある。閉じ込められた思いや、閉じ込めきれなかった思いや、いろいろ。
先が見えずにうろうろしている中途半端な作品。
作家が嘘を塗り込めて、他人の評価や流行なんかに媚びすぎてる作品。
そんな思いすら何も込められていない哀しげな作品。
Who are you ? and Who am I ?
加藤和彦さんはうつ病を患っていたと書いてあった。
創作の意欲もなくなった。という言葉が、外的要因なのか自己の内面に起因する事なのかわからないし、死ぬ理由も、生きる理由も人それぞれなのだと思う。
当人ではないからわからないけど、遺書のメッセージだけから受ける思いは、私が落ち込む内容と似てる気がして。そんな事言ったら失礼かな。
確かにいろんな意味で、世の中が芸術を必要としなくなったら、生きていてもしょうがないと、思う。
でも、音楽も芸術も優しさも思いやりも、もしも世の中が必要としなくなったとしても、どんな形であれ、自分を必要としてくれる人がいるかもしれないとまだ思えるなら、その人を悲しませる事になるのは嫌だ。
だから、自分で死んじゃだめだなと、踏みとどまる。ようにしている。
そもそも、必要か不必要かなんて、よくわからない。
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2 comments:
こんばんは、お久しぶりです。ハラダです。どうしてますか。文字を見るかぎりお元気そうで。 いついっても会えないから、電話していけばいいんですよね、ふらっと行っちゃって。ドルチェ以来ですか、ドルチェの後、なんやかんやバイトして、今は牛です。400頭くらいいます。なんでしょう、毎日戦です。戦。そのださん対世、人間、牛、頭の中。シンプルな生き方、黒い頭の中、 渦巻いたうんこ、なんでここにあるのかそれが。頭のなかのそのださんは一生懸命です。牛さんが死んだら物になる、さっきまで生き物だったのに。死ぬ直前の生き物を目の前で見ます、触れてて、だんだん冷たくなっていくのを感じました。生き物が物になる瞬間。閉じ込められた牛にくらべれば今の生活、食べ物、きるもの、すべてが贅沢に見えてきます、でもまだまだ見えてくるだけ、その気持ちには到底なれません 今も所詮口だけです。どうしてでしょう、 気取ってるからか、今まで息してきたのが楽すぎたのか、じめんばっかみてきたせいか。 車にのってて葉っぱがおちてて あ 葉っぱだと思う 猫がしんでてあららと思う、いぬが死んでたら ありゃりゃと思う 人が死んでたらけいさつよぶ いまの自分はそうしてしまう 。はっぱもにんげんもみんないっしょ、 このよがこわくなって 坊主にしましたよ、かみのけなんてっておもいで、おそろしい。楽に食えてる場合じゃない。でも思うだけ、感じるだけ、まだまだ大嘘つき。たかが、 かべにかざってワーワーいわれる絵、色つきで、べたべたぬって自分のきもちのせただけの絵 意味わかんない絵 でも されど絵。ことばにならない。たかが音楽されど音楽。 なんか そう 感じました かきーん
堪え難く抗えない種類の「失くす痛み」が、まだマックスに来てないからじゃないでしょうか。
個人的な都合で、いつも福岡にはいられなくなりました。
逢えなくて残念です。
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