久しぶりに、Quo Vadis(シェンキェーヴィチ)を読み返した。
昔読んだ時より、ペトロニウスの気持ちがよくわかる。というか、私はどうしてもウィニキウスよりペトロニウスだな。ましてやリギアにはなれないし、気持ちが寄り添う事もない。明らかにいわれのない罪で牢獄に入れられながら、死後の世界を楽しみに生きるなんてとても無理だ。
ローマ式の遊びの中に浸りきっていたウィニキウスが、リギアと出逢う事で、愛と清らかな心と神を信じる心さえあれば、幸せだ! と心の目が開かれるのはいいが、それを傍目でみているペトロニウスの「解るがわからん、俺には出来ん、綺麗な物は綺麗だし芸術品や詩を愛でる事をやめてまで、何処に幸せがあるんだか」と。
あるかもしれないが、俺は捨てはしないぞ。豪奢な生活も気ままな俺も!と。
うーん。信心深い人達や、清貧を常としている人にとっては、ペトロニウスって、まったくもう!と素直に思えるんだろうか。
パウロに、「キリストのためにはバラの冠も、宴会も、贅沢もあきらめねばならない」と言われた時、ペトロニウスは「もっともかれは俺にそれとは違う種類の幸福を約束してはくれたが、それに対して俺は、そうした違う種類の幸福を受けるには年をとりすぎている、それに自分はこれからも、バラを見ればいつも楽しいだろうし、すみれの薫りをかぐほうが、スラブあたりのきたならしい『隣の人』のにおいをかぐよりは気持ちよく感ずるだろう」と答えた。
俺は自分の好きな様に生きて来た。だから死ぬ時も気に入った死に方を選ぶつもりだ。といって、ネロの死刑判決が届く前に世にもまれな豪奢な宴会を催している席で笑顔で静脈を開いて死んだ。静脈を開いた後でも、途中、眠たくなったからといって休憩すら挟んだという事になっている。
現在、ローマにはこのとき殉教したパウロとペテロが奉られた荘厳な教会がある。いろんな国からいろんな人が絶え間なく訪れる。建物に施された彫刻のすばらしさや美術品を沢山収蔵した美術館まである。世界の宝物のどれくらいの物がここに集まっているんだろう。
これを目にしたら、ペトロニウスはなんとおもうだろう?
「あの頃、ローマ1の審美眼の持ち主で、ありとあらゆる美しい芸術品を収集し、上品な『趣味の審判者』と誰からも認められていた俺に、パウロはなんといったのだったか。」とは思わないだろうか。
『矛盾』とは、いつ、何処で生まれて、はき違えられて、当たり前になるのだろうか。
世界的な不況とメディアが聞き飽きるほどまくしたてるなか、本当は物々交換より便利に人間が使える様にと発明されただけの紙切れでしかないくせに影響力を持ちすぎた紙幣たちは、食べるためという最低限の欲求を満たすためのわずかな量を本当に必要としている人の所には限りなく少なく、ある所には有り余るほどあるもんだ。
おもしろいよね。人間って。
お金は寂しがりやさんらしいよ。友達が多い所に集まるらしい。
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