Mar 14, 2008

イチゴ

「誰も話を聞いてくれないということは、誰の話も聞こうとしていないことと同じだ」
と、いうような事をTERENCE CONRANが、言っていたそうだ。
誰かに理解してほしいのに理解してもらえないという感覚を私は味わった事が無いし、求めてもいない。だから、TERENCE CONRANの言葉の意味はわかるし、うまい事言うなと思うがそこに実感はない。
何故、理解を他者に求めるのか?前にもちょっと触れたとは思うが、理解と共感は似て非なる物だ。理解を得る。理解してもらうという作業には大変な労力が生じる。そうして、それは不特定多数の人々に求めるものでもない気がする。例えばそれが仕事に関する事だったら、プレゼンしたり、イメージ戦略を繰り広げたりして、それはもう大変な労力を要する。自分以外の人に不必要かも知れない内容を含んだ何かを、必要だと、必要な気がすると理解していただかなくてはいけないから。
そこに、感情論は必要ない。お年寄りのためだという言葉や、子供のためだというコンセプトに対して、人々の心に響く何かがあるという事に関して言えば、人々の心が動かされるという動向が見てとれはするが、それは、一般的に人として経験してきた、個人差こそあれ誰にでもある心の動きであって、その中に、ただの個人的感情を持ち込んだら失敗する気がしてならない。発信しなくては答えは見えてこない。確かにそうだ。だけど、その答えを自分の実力以上に期待して思い通りの答えを得るなんて事はほとんどないのではないだろうかと思う。それは少し傲慢な気がしてしまう。
きっと、それはいろんな事にあてはまるのではないだろうかとも思う。
時折、自分がとても冷たい人間であるかのように感じるときがある。私は他者に対してすぐに共感する事ができない。「そうだよね。わかるわかる」とすぐに感じる事が出来ないからだ。いつも、そうかも知れないし、そうでないかもしれない。そこのところはそう思うけど、他の部分は違う気がする。だからといって、その他者にたいして否定的な気持ちも全くない。ただ、時間がかかるだけだ。すーっと見ていないと、その人の事がわからない。ずーっと見ていてもわからない。
だから、その感覚を自分に置き換えるようにしている。私の事も別段誰かにどうしても理解してほしいとは思わない。だけど、もしも理解したいと思ってくれる人がいると申し訳ないので、間違った自分情報を出さないように、相手の顔色をみて発言する位なら、その件に関しては口を閉じるように、どうしても譲れないなら、結果はどうなろうと確実に口にして伝えるように。
そうして、やっぱり「私、イチゴが大好きなの」っていう単純な会話にでさえ、「アー私も私も!」という会話は出来ない。
私は、小さくて酸っぱくないイチゴは好きだけど、おっきくて一口では食べれないイチゴは嫌いだからだ。

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