オーナー、僕の万年筆はフランス製です。と、そのメーカーのアドレス付きで嫌みなメールが来ていたので、一応素直に訂正してみる。私のギャラリーはニューヨークとパリほど広いらしい。
さて、素直な一面も見せたところで、ケッコウゲッコウが始まりますよん。
今年はどんな作品と出会えるのやら。去年は作品も全部おもしろかったし、グランプリをとった西谷くんも案外とかわいらしくて、いい感じでしたからね。ふふふ。審査に私情は全くはいっておりませんから。おまけに一次審査はやりますが、私は投票をした事はありません。私のなかでの一番が来るまで。なーんてちょっぴり高いところから失礼します。
昨日、業者さんが来られて「いやあ、冷え込んでますなあこの業界!」とお話されてました。画材や額縁なども例年より売れないらしいです。なんせ、そういう大手は学校とかに一括納入してたりして、その学校自体の美術の時間が削られていて、どうにもならんとのこと。
私は思うのです。カッコつける訳ではありませんが、海外にいくとよく感じるのは、いろんな人とお話しすると、絵の話や音楽の話、映画の話やその国や地方の歴史や政治なんかのもろもろの話を、普通に話せる。日本だとそういう事に興味がある人しか話さないとされているような話を、子供でもおじいちゃんでも話す。そうして、こちらにも知ってて当たり前だという風に聞いてくる。ただ単に一般教養なのだ。一般教養。特別な人たちの特別な教養ではないのだ。
この間行ったメトロポリタンで、5才くらいの女の子が「ぱぱ、この絵ってカンデンスキーに似てるよね。違う?」と、バタバタ走り込んで来て言い放った。美術館でバタバタ走る。もしかするといけない事なのかも知れない。でも、その子はその絵が気になったので一刻も早くその絵を確認したかったのだ。
日本では「美術館でもコンサートホールでも、おとなしくお利口に見なくてはいけない」と教えているのも、それはそれで躾というものだから良い事だと思う。ただ、強制されておとなしくするのか、通っているうちに大人になって、なんだかお利口に見れるようになるのか、そこの所も大切何じゃないかと思う。どうしてもダメなときはそれこそはっきりと、このコンサートは大人しか入れませんよと提示すればすむ事だし、とりあえず、ちっちゃい頃から美術館も画廊もコンサートホールも日常生活の中にあれば、それはなんて事無い場所だ。近所の公園と同じで。
学校で美術を、音楽を教わる時間が少なくなったのを嘆いてもしょうがないので、世の中のお父さん、お母さん、幼児期から英会話を習わせるのも国際人を育てる上でとても大切な事でしょう。でも、くれぐれも、本当の国際人に育てたいなら、英語はちょっとヘタッピでも、どこに行っても物怖じせず、自分の武器で戦える技を楽しんで身につる事の方が受け入れてもらえる率は高いとおもいますよ。
英語がペラペラでも、頭がとても良くても、そういう余分な余裕に興味を持ってないと、パーティでも楽しい会話は弾みません。音楽の無いパーティも、美術館のないパリもニューヨークも楽しさが欠けるのと同じように。
そんな、パーティになんか行く機会なんてないからいいや!と思った方もいるでしょう。
そんな寂しい事言わないで。人生はパーティ会場になんかわざわざいかなくても、毎日が自分自身のためのパーティみたいじゃあないですか。それも長いようであっという間の一度しかないパーティ!どうせ、いろいろ嫌な事やめんどくさい事からは逃げられないんだし、楽しんだもん勝ちでしょ。
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