朝、もう少し寒いのかと覚悟して外に出てみたが、ちょっと拍子抜けするほど暖かかった。暖かくあってほしい時に外に出ると非常に寒く感じたり、人ってなんてわがままだ。過度な期待をするもんじゃないな。
たいてい、意に添わない。
そうそう、去年見つけて好きになったロウバイが咲いてるのを今年も見た。もっと近づいてクンクンしたかったけど、人のお家のお庭なのでぐっとこらえて植物園の奥の温室の前のロウバイに合いにいこうと、我慢してみた。
この間、「寂しさ」についてちょっと話していて思った。「寂しい」という一方通行っぽい思いを、相互に認め合うのは不可能だなと。というか、私には出来ないなと。「寂しさ」というのは、孤独とも違っていてどこか甘えた感を含んでいる気がする。孤独はキラキラ素敵な響きで、いつも私を魅了してやまないが、「寂しさ」とはぐっと耐えなくてはいけない感じがあるし、第三者に対してなんだか訴えかけてる感もあるので、苦手だ。
きっと私は大好きな人に「寂しい」と訴える事はないだろう。その人がどこにいても、寂しさを感じる事はないからな。心の奥底でつながってれば、100万キロ離れていても寂しくなんかならないだろう。というか、そんな人としか時間を共有する事はできないだろうから。まあ、相手が思いっきり寂しがりやさんっていうも、好きにはならないだろうし。
でも、きっと女の子も男の子も、お互い「あなたがいないと、寂しいの」なんて会話で愛の度合いとやらを確認したりする事が楽しくってしょうがない時もあるんだろうな。かわいげがないなあ。あいかわらず。
でも、一年に1回か2回くらい、外界と自分とのずれがあまりにも生じていないか不安になるときがある。その時、相手にしてくれる人がいると「ありがたいっ!」とおもう。がしかし、私がそう感じてる人達は自分たちがそういう感じの時、どうやって寂しい思いを解決しているのだろう?と、この間、はじめて思った。何故って?なぜなら私が解決してあげてる訳ではないし、わたしに相手をしてくれとも言わないから。ということは、私の知らない方法を知っているという事になる。おーそうだったのか。と。本当に役立たずなんだなあ。わたしって。っていうか、私に、寂しさを訴えてくるのは入院中で退屈しのぎをしたい父だけだ。違った意味で、寂しいじゃんこれって。
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2 comments:
動物園の梅もきれいに咲いていますよ。
I saw it today.
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