Jun 23, 2019

自由な死について



多くのものはあまりに遅く死ぬ。ある者たちはあまりに早く死ぬ。「死ぬべき時に死ね」という教えはまだ耳慣れまい。死ぬべき時に死ね。ツァラトゥストラはそう教える。むろん、生きるべき時に生きなかった者が、どうして死ぬべき時に死ねよう。そのような者は生まれて来なければよかった。わたしは余計な者たちにそう説く。

ここだけ読むと、言葉の強さから拒否反応を示す人もいるだろう。
死ぬ 死ね という言葉は使ってしまうと罪悪感を伴う恐怖を感じる。

生きるべき時に生きなかった者が、どうして死ぬべき時に死ねよう。

その言葉だけで語るとしたら(もちろんこちらからしたら、勝手にものすごく哀しくてしょうがないのだけれど)もしも早くに死んでしまったとしても、それは、生きるべき時に生きたから、そうしたら死ぬべき時(そんな時があるのかどうかは別にして)に死ねたんだってことでいいんだよね。

生まれることも、死ぬことも 基本、自分ではどうにもできない。

ただ、物心がつく頃まで生きると、なんだか生きるべき時が嫌でもやってくる。
いろんなしがらみや生きにくさも同時に訪れるけれど、そんな事は、生きるべき時に「これは、生きてみるしかなさそうだな」と腹をくくれば、時が経てば笑い話か、記憶さえあやふやな過ぎ去った日々の天気の様なものだ。

遠足の日の雨を覚えていても、それが記憶となった今、その時の雨とは違った雨に見えるはず。
きっとその遠足をすごく楽しみにしていたのなら、すごく嫌な雨だったよね。なのに、過ぎちゃった。それにそのあと、デートの時に好きな人との距離を少しだけ近づけてくれる優しい雨が降ることもあることを知った。そう、生きてきたから。
だから、次の雨がどんなに嫌な雨だったとしても、素敵な雨も降ることを知っていれば、きっと大丈夫。

ツァラトゥストラは、この時点ではなんだか優しい。
その事を、余計な者たちに説いている。説こうとしている。
人が生きていくうえで、取り返しのつかないことにならない様にしてあげたいという、愛を感じる。

私だったら、自分で決めたわけでもないのに、気がつくと生きていかなければならないことになってしまった時、そしてそこから時間を過ごしてきた時、自分でその事に考えが至らなかった人に、そんな事をわざわざ話そうとは思わない。

最近思う。
誰かが亡くなった時、ある人はすぐにその理由を聞きたがるけれど、亡くなった人が生きてきた理由は聞きもしない。
そんな人に、どう答えればいい?
はっきりと目に見える事実は「もうここにいないの」という事。
それしかない。

それより、その人が存在したときのことを話そうよ。
あんな風に笑ったとか、あんなところがドジだったとか、あんなにも素敵な絵を描いたとか。声が好きだったとか。
乾ききることが難しいカサブタなのに、何回剥がせば気がすむんだ。
その度に、血を流し続けるしかないじゃないか。

答える方もほとんどの場合、亡くなった理由は(それが事実かどうかな別にして)口にしやすいが、その人が生きてきた理由を上手く伝えることが出来ない。

そして、その人が存在した理由を見出せないのなら、世間話のついでみたいに口にしないで。いなくなった時点から時が過ぎ、今になって、どうして?って聞かなくちゃいけない立場だとしたら、故人からすると知る必要はない人ってことだと思う。

人が死ぬことに対して鈍感な人もいる。本当に興味がないのか、怖いからなるだけ触れないようにしたいのか、その理由はよくわからないのだけれど。
「明日の天気、どうよ?」っていうくらい簡単に「どうして死んだのよ?」「何が原因?」「病気なの?」って。
達観してるのか、バカなのか、どっちだろう。

そういう人は簡単に「人はどうせ死ぬために生きてるんだから。」とかどっかで聞きかじった受け売りであろう言葉を平気で使う。

人は死ぬためになんか生きてないよ。生きるために生きて、生きて、だから苦しんだり、喜んだりして。
ただ、どんな旅にも終わりがあるだけ。

それに、その旅の終わりを経験した人が、のちに私たちに「あのね、旅の終わりはこうだったよ」とか「次の旅が始まるよ」とか話してくれる機会がないから、ちょっぴり不安だったり寂しかったり、自分ではどうにもできないだけ。

だから、自分でちょっとでもどうにかできそうかなって時を、生きるために生きるしかない。

君が死んだ時は、旅行に行った時の馬鹿話とか、面白くなかった映画を見た話とかのついでに、「で、あいつ死んだんだって? なんでよ? どうしてよ?」「まあ、実は全く興味ないんだけど。」って言ってやるよ。
って思っちゃうくらい、腹立たしかったんだ。口悪くてごめん。
そんなこと言わないよ。

この曲、可愛いよ☆




Mar 11, 2019

思考の飛躍 2019311

改めて思う存分今回の彼女の作品をながめていて、ふと水の音が聞こえてきそうな作品をみつけた。私にはその絵が、遠くから見ると雨に降られて観光客もまばらになり、回廊にあるカフェの光が淡く遠く弱々しく映っているベニスのサンマルコ広場の石畳を思い出させ、近くで見ると雨には変わりはないのだが、それこそ午後のNYの少し混雑したアベニューをホテルに向かうタクシーの座席からガラス越しに見える曇っているのに少し明るいあの空と、雨のせいか少しうつむき加減に急ぎ足で行き過ぎるいろんな国の人々、そして、雑多な色の広告もネオンサインも雨のベールを纏ったガラスごしにちょっぴりぼやけてしまっていて、少しずつ進む車の速度と、あまり早くない定期的なワイパーが揺れるごとにデザインを変えて、流れたりとどまったりしている。そんな事を思い出させる。


しかし、その雨は雨だからといって少しも嫌な訳ではなく、例えば、最愛の国ベニスに滞在している時の心地よい異邦人感覚と、いにしえの美術品や建物に囲まれて、感慨深く、何度来ても時の流れの膨大さに圧倒されてしまいそうになる時間を過ごしている時に降る休息の様な優しい雨で、決して明日のグッゲンハイムに行く道のりを邪魔する事はなく、車が少し渋滞していてもガラスを伝う雨粒が大好きな私にとっては、かえってスローなスピードで変わりゆく様を眺められるおかげで、忙しいスケジュールで動いた日中から快適なホテルの部屋へと誘ってくれる素敵な雨だ。そう、雨の、水の、色の、心地の良いバランス。今、降ってくれている事がとてもいい感じな素敵な雨。

抽象作品というのは、こんな風に自由だ。ただの私の勝手な思考の飛躍でしかない。ただ、そう感じるのだから仕方がない。作家が何を思い、何を描いたのか確実な事は私にはわからない。
その話をしていてスタッフに「彼女の今回の絵には、タイトルがついているの?」と訪ねると、「はい」と言う。
「あの絵には、どんなタイトルがついているの?」
「ちょっとまってください、えーっとkirisameです」
これは、その絵から雨や水を感じた自分を自慢しているのではない。作家が過ごして来た時間と、私が過ごして来た時間は同じではない。ただ、少しだけ、ほんの少しだけ触れ合った様な偶然でしかない。タイトルは「kirisame」でも、彼女にとっての雨の景色と、私の勝手な妄想とは全く違うかもしれないのだから。
ただ、「kirisame」という抽象画を描いて、私の頭の中に水の音と過去に見た雨まじりの心地よい想い出を連想させるてくれる作家がいる事がとても嬉しい。
そうして明日見る時には、どんな風に思わせてくれるのかも、また、楽しい。

抽象画って、いいでしょ?

もちろん、抽象画だけじゃなくてどんな作品にも創造の翼をつける事が出来る。人の数だけ際限なく許される思考の飛躍。自由ってそういう感じ。彫刻でも音楽でも詩でもなんでも。
何にもないキャンバスや空間なんかに、いろんな思いをしながらこんなに素敵な物を生み出して私たちに見せてくれる。
いつも思う。本当に生み出してくれる人たちがいてくれて良かった。
じゃないと、生きる楽しみが大幅に減ってしまう。
私にとっては、意味さえなくなりそう。

私にとっては、意味さえなくなりそう。

Nov 19, 2018

ATP finals 2018

今年もシーズンが終わった。



AFPBB NEWS
今年のATP finalsは最初から変だった。
おまけに終わってみたら、ラウンドロビンから決勝まで、全試合ストレート。フルセットの試合が1つもなかったことに驚く。
こんなこと始まって以来なんじゃないだろうか。

フェデラーと錦織の初戦が終わったあと「世界一位になれる錦織が帰ってきた」とか興奮気味に言ってた、過去に世界46位になったことがある、自称「テニスの才能はなかったけど、解説の才能はある。なぜなら僕には確実に全てが見えるから」と今年からWOWOWの解説に加わった伊達公子にドヤ顔で言ってた人がいたが、あの試合を見てよくそんなことが言えたなと思う。

もちろん、錦織が勝つには勝ったけど、フェデラーも錦織も試合になってなかった。
サーフェスが合わないのかボールが苦手なのか、全くスイートスポットに当たってないし、最後まで変なリズムの試合だった。

なんだか、どの試合もたどたどしいラリーをする選手が多かったし、ハードコートなのにクレーコートで打ち合ってるような球種やコースを選択して打ち合ってるように見えた。

結局、特にファーストサーブの確率を上げて丁寧なラリー展開をした選手が勝っていった。その中でもサーシャは格別だった。あんなに落ち着いて最後まで冷静に戦ったサーシャを初めて見た。もちろん、才能がある選手だけど、いろんなタイプのトップ選手達と戦術的に勝った戦いができたせいで、準決勝のフェデラー、決勝でのジョコに対する試合運びは見事だった。
これからのサーシャにとって本当に価値のある1週間になったんだろうなと思った。

今まで「サーシャは、マスターズは獲れてもグランドスラムは獲れない」とか嫌味なこと、好き勝手に言われてたけど来年は頑張れるかも。

しかし、この間のカチャノフとの決勝の時と同じで、追い込まれた時のジョコビッチの態度はちょーっといただけない。パフォーマンスでもいいから、最後まで懸命にボールを追う姿を見せて欲しい。明らかに落ちてる態度を見せるのはなんだかね。ナダルだったらそんなことしない。負けるとしても綺麗に負けて欲しいな。

錦織がティエムに勝てなかったのは、もちろんファーストが入らなかったからとも言えるけど(そりゃ入った方が楽だけど、セカンドからでも十分展開できる彼でさえ)ティエムが前の2試合とハッキリと戦術を変えてきたせいだ。
このコートではハードヒットしまくっても勝ち目がないということに気づいたのか、ベースラインより下がって、まさにティエムが得意とするクレーコートでの戦いを展開してきた。もちろんファーストも前の2試合より確実に入れてきてた。

かわいそうに、ガットのテンションをコンマ単位で気にする錦織くんには、このコートやボールは苦手だったんだろうな。フェデラーも準決勝まで球を捉えることができてなかったくらいだから。でも偉いよ。右手首を怪我してから、ガットもガットのテンションも、サービスのフォームも変えたのに、ファイナルに出場するところまで来たなんて。
そう言えば、全てが見える人は錦織くんが30位前後に怪我で落ちた時「彼はこのままだと、あっという間に100位前後にどんどん落ちていきますよ。そしてそうなるともう20位以内には上がってこれなくなりますよ」って言ってたなあ。

ファイナルを制したズべレフはテニスもスピーチも偉い子だった。

毎回気になるのは、フェデラーとかデルポトロとかが出場する試合の時、サッカーのサポーターみたいな応援をするファンがいるけど、あれはちょっといただけない気がする。デ杯ならともかく、なんだかうるさい。
応援されたら嬉しいかもしれないけど、そういう人たちはなぜかブーイングも激しい。
テニスの試合にブーイングは似合わない。

おっと、今度は駒井哲郎と埴谷雄高について書こうかなー。



Nov 10, 2018

イースト菌とNetflix

この間まで、ちょーっと忙しかったから時間がなかったんだけど、最近、パン作りにはまっている。
機械は使わない。手ごねだ。全粒粉と強力粉のバランスを変えたり、水だけでこねるか、ミルクも入れるか、具材はなんにするか。
どのくらいの組み合わせがあるんだろう。
でも、一番気に入ってるのは、イーストでパンを発酵させる作業だ。

こねるのは、手に力が入らない時なんかは大変なんだけど、リハビリ?と筋力向上と思ってコネコネしてる。
コネコネしたら、いよいよ一次発酵だ。
イースト菌ってなんなんだ。どうしてぬるま湯と蜂蜜なんかで、イキイキと活動開始するんだ。
イースト菌、酵母菌って、菌っていう言葉がつくと顕微鏡写真を勝手に想像してしまうんだけど、世の中には良い菌と悪い菌がいるんだろうというくらいにしか考えないことにした。

あんまりすぐにググると、睫毛にはデモデスクというダニが、400万匹、それも一般成人の95パーセントの人にいるらしい。とかいう、おおっ!とのけぞるようなネタを拾ってしまうので、美味しいパンを作る菌は良い菌だという事で、深追いはやめておこう。

発酵を初めて40分ぐらいたつと、パンの生地が1.5倍くらいになって、手をかけると答えてくれるって素晴らしい。と一人、ほくそ笑んでしまう。
そんな時私の頭の中は、エルフのようなちっちゃくて可愛い妖精が、一生懸命プクプク泡を作っていくれている映像で満たされる。

何回もパンを焼いていて思う。
「手をかけたら、答えてくれる。」という事が最初は素直に嬉しかったんだけど、最近は、そんなことを思う自分がちょっとなって思ってしまう。
現実社会では「手をかけたら、答えてくれる」なんて実感が湧きにくいからなのか、イースト菌に癒しを求めてしまうなんて。
おまけに「手をかけたんだから、答えてくれ」と思う事自体、なんだかなあって。

ベンチタイムが終わって、具材を詰めたり形を変えたりして2次発酵。
焼き始めると、いい香り。うー天国だ。

パンを焼く作業には 「待ち」 の時間が多い。
せっかちなので、ちょっと前だったら発酵時間を待つなんてできなかった。考えるだけで、めんどくさくて嫌だった。
それが最近では、種子の発芽も待てるし、イースト菌の発酵も待てる。
秋の頃に植えたヒヤシンスの球根の先っぽに、緑のちっちゃな芽が出てる。
昔はなんであんなに、すべてのことに対して焦っていたんだろう。

仕事で関係してる人以外には、ほとんど会うことがないので、私が死んでるんじゃないかと思ってる人もいるみたい。

生きてるよ。

最近面白かったドラマは、Netflixの「The Haunting of Hill House」と「Happy!」「Stranger Things」どれも、なかなか面白いよ。
ドキュメンタリーでは「Wild Wild Country」こんな事件知らなかったから、びっくり。幸せなユートピア、誰もが楽しいパラダイス!を謳って自分たちの街を作るっていう荒唐無稽なのに本当にあった話っていうのが滑稽で悲しい。
「みんなが幸せならそれでいい」とか言ってたくせに、お金や裏切りが絡んでくると、隠してたはずの下世話な本性がみるみる顔を出す宗教団体のトップがあまりに惨めで、あーあ、やっぱりねって感じ。
むかーし私に「神様はお金、必要としませんから」と言った子がいた。その子は正しい。
おかげで、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」を再読。
そのドキュメンタリーはロバート・M・パーシグの「ある一人の人物が妄想にとりつかれているとき、それは精神異常と呼ばれる。 多くの人間が妄想にとりつかれているとき、それは宗教と呼ばれる」を思い出す。

昔はドラマ見る時間とかなかったのに、病人っていいよね。寝てなきゃいけない時は、ダラダラドラマ見ても罪悪感がないからさ。いいね。

大好きな人がいて、その人がハワイのお土産をくれた。ピンクのマカダミアナッツチョコ。ホテルの10月限定バーションらしい。
私が病気になってからも、さりげなく気遣いながらもずっと変わらずに接してくれる人の中の一人で、仕事でも必要に思ってくれる。おまけに、すごく頑張り屋さんだ。
昔よりも「必要とされる」ということを忘れそうで不安になる時、生きてる実感を取り戻させてくれる大切な人。

それと不思議なのは、ちょっときつくて、もういいやってなってる時(私も一応そうなる時はある)なぜかそういうタイミングの時にいつも便りをくれる人がいる。遠い空から「お元気ですか?」って。そして、彼女が頑張ってる姿を思うと、さっきまでウダウダ元気がなかったことが嘘みたいになっちゃう。ありがとう。みんなに勝手に頼ってるな、私。

変わっているようで、何にも変わっていない。そんな日々。
Nitto ATP Finalsも始まるしな。

そして、多分、また忙しくなる。きゃー。

季節の変わり目がはっきりしないし、年末っていう怒涛の時期に突入しそうだけど、とりあえずみんなも元気にお過ごしください。

喉がイガイガしたら、すぐにマヌカハニーを舐めるんだ。

Mar 8, 2018

カエルが黄色だったらいいな。

最近、昔ほど脳みそを使ってないせいか、隙間にいろいろなビジョンが現れて、それに紐付けられた思い出がふとしたときに蘇る。

世の中にはいろいろな人がいるし、見た目と違う人もいるから面白い。
その人は、色が白くて、女の子らしい趣味を持った、女の子らしい人だった。

ある夏の日、パーキングに車を止めてふとみると、ボンネットの上にトンボが一生懸命 卵 を生むしぐさをしていた。

トンボはきっと、ボンネットの光なのかなんなのかわからないけれど、そこに水を連想してしまったのだろう。

一生懸命、繰り返していた。

しばらくそれを見ていて、なんだかトンボに申し訳なくて、やるせなくて、ちょっぴりシュンとしながらギャラリーへ。

たまたまその彼女が来ていたので、「今、トンボがね・・・」って、事の顛末を話したら、じっと聞いていた彼女がにっこり笑って、


「馬鹿ですねー。トンボ」って。


あうっ。

全く予想していなかった答えだった。
その瞬間、彼女のことがもっと好きになった。

ことを、ふっと思い出した。

うちのミントの葉が、シソみたいな大きさになってる。
これは、これでいいのだろうか。

いいけど。

Feb 10, 2018

Captain Fantastic ☆


ヴィゴ・モーテンセンの最新作 Captain Fantastic が面白かった。
タイトルにファンタスティックとか入っているけど、別にエイリアンとか宇宙とかのお話ではなくて、まっすぐお父さんと可愛い子供達のお話。
あーでもおとぎ話でもない。いやっ、現代の社会からすると、ある種のおとぎ話かも。

子供達はお父さんと森の中で暮らしてる。体力つけたり(軍隊並み)本を読んだり(年齢を超越したラインナップ)音楽を楽しんだり(別にヒッピーではない)特に生きることに必要な最小限なことを学びながら暮らしている。
ただ、この生きることに必要な最小限なことが、とても大切なのに普通の生活を送る人たちの中には、ほとんど、ない。

お父さんは言葉で伝える。態度で見せる。誤魔化さない。子供だからとか、女の子だからとか、男の子だからとかいう基準を持たない。ただ、人間として扱う。

あんまり説明すると意味ありげになるけど、意味なんてなくて、自然に普通な家族だ。と、思う。

見る人によって、例えば、結婚してる人や子供がいる人、なんていうか平均的な感覚や道徳的な人たちが見ると、もしかすると「なんだこれ?」と思う人もいるのかな。

お金持ちは幸せとか、いい大学出てる人は頭がいいとか。
そういう間抜けな感じが、微笑ましすぎてひどく笑えてくる。

私の周りにも「こいつって、すごいな」と思う頭のいい人はいっぱいいる。でも、多分、私が好きな種類の頭の良さだから、世間の人から見たら変わった人の部類に入れられるのかもしれないけど。

まあ、素敵な映画です。

お母さんが死んじゃって、お母さんはお墓に埋められたくなくて、火葬してほしいっていう遺言を残す。火葬した後の処理も普通だったら難しい行為だと思う。
でも、子供達はなんの迷いもな Bye Bye Mammy! と明るく実行する。

おじいちゃんとおばあちゃんは、お金持ちでごく普通に墓地に埋葬しようとする。

子供達とお父さんは、ごたごたありながらも自分たちのミッションとして、お母さんをレスキューする。でもその作戦名が「お父さんとお母さんをレスキューする」そう、子供達はちゃんとお母さんと一緒に、お父さんのことも今のなにがしかの状態からレスキューしなくちゃ!とわかっている。


ラスト近く、湖のほとりで楽しそうに輪になって「お母さんが好きだった歌を歌おう!」といい、歌いながらダンスをする。

そのシーンがとても幸せそうで、楽しそうで、私もこんなお葬式がいいな。そしてそのお母さんが好きだった曲というのが、ガンズのSweet Child o' Mineだ。

湖のほとりの美しい景色の中で、可愛い子供達がフワフワといる中、女の子の作り込んでない透明な歌声で聞くSweet Child o' Mine。
いい楽曲なんだなと改めて思った。
子供がお母さんを思って歌ってる歌だしね。

幸せな思い出の瞬間には、必ずお母さんがいる。
あっ、もちろんお父さんも。そう思えるだけで幸せ。

子供達はみんな可愛いけど、私はサージがお気に入り。
でも、きっと子役の子達は生のアラゴルンに会えて感動しただろうな。

She's got a smile that it seems to me
Reminds me of childhood memories
Where everything
Was as fresh as the bright blue sky

Now and then when I see her face
She takes me away to that special place
And if I stared too long
I'd probably break down and cry

Sweet child o' mine
Sweet love of mine

She's got eyes of the bluest skies
As if they thought of rain
I'd hate to look into those eyes
And see an ounce of pain

Her hair reminds me of a warm safe place
Where as a child I'd hide
And pray for the thunder and the rain
To quietly pass me by

Sweet child o' mine
Sweet love of mine

Where do we go?
Where do we go now?
Where do we go?

Sweet child o' mine

あっ、最後になるけれど、今年もよろしくお願いします。

Nov 26, 2017

流行りのパンケーキと、今を生きる男の子・女の子

ちょっと前の事。

世間で人気のパンケーキ屋さんに寄り道した時、時間帯がずれてたのか、ちょうど空席があったので休憩がてら入店。
案内された席でワクワク待っていると、隣の席の20代前半とおぼしき2人ずれの片方が結構なデシベルで話し出した。

こういうお店はいかんせん隣の席との距離が近い。
「ねえ、ちょっと聞いてっ!」

工事現場の ウチの会社は騒音対策やってますデシベル表示機 だと、外の騒音でも結構なデシベルを稼げそうなレベル。
散歩中見つけると、「わーーっ」とか言ってどのくらい出るのか試しちゃうよね。

「〇〇君さあ、私の友達が入ってるLINEのグループの中で、私の事相談してたんだよー」

誓って内緒話に聞き耳を立てていたわけではない。
この話を聞かない努力をするとしたなら、同じデシベルで会話をするか、ヘッドホンが必要。

「なんて相談してたの?」と向かいの席のお友達。

聞き耳じゃないよ、聞き耳じゃ! 「それがさあ、私の事をさあ、
「彼女、心も身体もくれたのに、LINEの返事はくれないんだよ。どうしたらいいと思う?」とか言ってんの!」

秀逸だったんですよ。
目の前のパンケーキが一瞬人格を持って、目があった気さえした。

憤慨しながら話す彼女 (果たして〇〇君の言葉と行為のどの部分に憤慨しているのかは謎) の相談事に、勝手に答えを探してみたのだが、私の中にはこういう相談事に使える言葉は何一つ浮かばなかった。
強いて言うなら、
女の子 = 『心』はあげてなかったんじゃないかなあと。
男の子 = 「心」と「身体」をあえて分けて考えるところが不思議。
      おまけに、LINEのグループっていったって、不特定多数に。

勿論、私には相談してないんだけどね。

あっ、パンケーキは美味しかったよ。でも、30分並ぶ程かはわからない。
ごめんよお。人の数だけ趣味嗜好ってのはあるものだからしょうがないよー。

今時流行りのオサレなパンケーキ屋さんでの休憩タイム。彼女のおかげであまりあるお土産を貰いました。
いやっ、彼のおかげか。

「彼女、心も身体もくれたのに、LINEの返事はくれないんだよ。」


秀逸だったんですよ。私にはね。