Mar 11, 2019

思考の飛躍 2019311

改めて思う存分今回の彼女の作品をながめていて、ふと水の音が聞こえてきそうな作品をみつけた。私にはその絵が、遠くから見ると雨に降られて観光客もまばらになり、回廊にあるカフェの光が淡く遠く弱々しく映っているベニスのサンマルコ広場の石畳を思い出させ、近くで見ると雨には変わりはないのだが、それこそ午後のNYの少し混雑したアベニューをホテルに向かうタクシーの座席からガラス越しに見える曇っているのに少し明るいあの空と、雨のせいか少しうつむき加減に急ぎ足で行き過ぎるいろんな国の人々、そして、雑多な色の広告もネオンサインも雨のベールを纏ったガラスごしにちょっぴりぼやけてしまっていて、少しずつ進む車の速度と、あまり早くない定期的なワイパーが揺れるごとにデザインを変えて、流れたりとどまったりしている。そんな事を思い出させる。


しかし、その雨は雨だからといって少しも嫌な訳ではなく、例えば、最愛の国ベニスに滞在している時の心地よい異邦人感覚と、いにしえの美術品や建物に囲まれて、感慨深く、何度来ても時の流れの膨大さに圧倒されてしまいそうになる時間を過ごしている時に降る休息の様な優しい雨で、決して明日のグッゲンハイムに行く道のりを邪魔する事はなく、車が少し渋滞していてもガラスを伝う雨粒が大好きな私にとっては、かえってスローなスピードで変わりゆく様を眺められるおかげで、忙しいスケジュールで動いた日中から快適なホテルの部屋へと誘ってくれる素敵な雨だ。そう、雨の、水の、色の、心地の良いバランス。今、降ってくれている事がとてもいい感じな素敵な雨。

抽象作品というのは、こんな風に自由だ。ただの私の勝手な思考の飛躍でしかない。ただ、そう感じるのだから仕方がない。作家が何を思い、何を描いたのか確実な事は私にはわからない。
その話をしていてスタッフに「彼女の今回の絵には、タイトルがついているの?」と訪ねると、「はい」と言う。
「あの絵には、どんなタイトルがついているの?」
「ちょっとまってください、えーっとkirisameです」
これは、その絵から雨や水を感じた自分を自慢しているのではない。作家が過ごして来た時間と、私が過ごして来た時間は同じではない。ただ、少しだけ、ほんの少しだけ触れ合った様な偶然でしかない。タイトルは「kirisame」でも、彼女にとっての雨の景色と、私の勝手な妄想とは全く違うかもしれないのだから。
ただ、「kirisame」という抽象画を描いて、私の頭の中に水の音と過去に見た雨まじりの心地よい想い出を連想させるてくれる作家がいる事がとても嬉しい。
そうして明日見る時には、どんな風に思わせてくれるのかも、また、楽しい。

抽象画って、いいでしょ?

もちろん、抽象画だけじゃなくてどんな作品にも創造の翼をつける事が出来る。人の数だけ際限なく許される思考の飛躍。自由ってそういう感じ。彫刻でも音楽でも詩でもなんでも。
何にもないキャンバスや空間なんかに、いろんな思いをしながらこんなに素敵な物を生み出して私たちに見せてくれる。
いつも思う。本当に生み出してくれる人たちがいてくれて良かった。
じゃないと、生きる楽しみが大幅に減ってしまう。
私にとっては、意味さえなくなりそう。

私にとっては、意味さえなくなりそう。

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