この間、カルティエ現代美術財団に行ったときは、 David Lynch をみた。
空間が贅沢で好きな場所だ。
大きな作品も良かったけど、どちらかというとメモ書きや紙ナプキンに描かれたほとんど落書きに近い感覚の物の方が、良かった。
というより、そんなものでも、紙面の中でバランスを保っているのが微妙にすごいなと。多分、こういう人はそういう感覚を気にしなくても持ち合わせているのだろう。
そうして、そうじゃない人は努力では埋められない部分なんだろうと思う。
来年の春、きたのたけしさんが同美術館で個展?を開催するというニュースをみて思い出した。すごいな。とりあえずすごい事だ。
でも、観るのは怖い気がする。
David Lynchだから良くて、きたのたけしだからどうのという事でも、きたのたけしだから良くてDavid Lynchだからどうのこうのという事ではなくて。もちろんその2人を比べて考えているのでもない。
そうして、これは別に黒澤 明だったらいいという事でもない。
現代美術という言葉は、なんだか非常に便利な言葉らしい。いい意味でも使えるし、悪い意味になると途方もなく悪い。今を生きている私にとって、何年か、何十年、何百年か先に知能を持った生き物たちが、現代の美術館みたいな場所で、「へえーこれがあの当時の現代美術って奴なのか。その頃はこれが良かったんだあ」って思う瞬間に立ち会いたくないと思う時もある。もちろん、幽霊になって「そうそう、これって、いいでしょ?すごく!」ってささやきたい物もある。
当然ながら「現代」っていうのは果てしなく続く。
例えば膨大な資料から何かを探す人にとって、カテゴリー分けっていうのは非常に有用であるが、「今は、これがいいんだ。流行ってるんだ」みたいな事のために作られた言葉や名称があるとして、それに属してるんだっていう冠みたいに使うんだったら無駄だと思う。例えばMUSICやARTっていう単語はそれだけで成り立ってる気がする。もちろん、専門職以外の多くの人々に関してだけど。
それにくっつく言葉が増えるだけなんだかよくわからない。
お寿司が好きだ。
お寿司のヒカリモノが好きだ。
お寿司は好きだけど、ガリは嫌いだ。
お寿司は嫌いだけど、しょうがは好きだ。
お寿司のいくらは嫌いだけどウニは好きだ。
卵は好きだけど、いくらは嫌いだ。
こんな風に、確実に自分の好みがわかるのなら、お寿司っていう物さえ知ってれば、後は、自分の舌を信じればこんなにへりくつが言える。おまけにあの店のお寿司が好きだとか、あの子にごちそうするならあの店のお寿司だとか。
好きな物探索や経験によってデータは自分の中に蓄積される。これ財産。
絵も音楽もお寿司もパスタもそんなもんじゃないかと。
今日お寿司やさんの大将が来てくれた。ので、お寿司が食べたくなった。
Sep 29, 2009
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4 comments:
私もおすしが食べたいです☆
食いつきがいいねえ♪
noyoちゃんとカウンターでおまかせは・・・。
色気がないから、まわらせようっかなあ。
なんてね。
回ってても大歓迎です☆
でも、たまには回っていない方も・・・
:内部告発:
オーナーは回ってる方に興味があるみたいですよ。
ぼくも回ってない方がいいです :) 江戸前寿司最高。
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