鴨居玲が好きだったり、Andy Warholが好きだったりする。Glenn Herbert Gouldのゴルトベルク変奏曲が好きだったり、バニラスカイのサントラが好きだったりする。確実に好きだと言える物が沢山ある。その逆も。
そうして、それは別に「なぜ?」「どうして?」を伴ってはいない。私の一部がそういう反応をしめすから。難しいのは、その好きな物の中にさえも、嫌いな部分がアルということ。
絵や音楽や物事を判断する時、目の前のそれらだけを判断するのは難しい。目に見えているもの、耳に聞こえてくるもの、事実とおぼしきそれ自体が、ストレートに入ってくる事は私にはない。誰も何も言わなくても、それらが何も語らなくても、それらを作った人達のなにかが聞こえてくる。黙らせようとしても黙らない。作品に対する「思い」とか「あせり」とかそんな物が聞こえてくるときは、目の前の物がまだまだでも愛しく見える。
問題は「それ以外の言葉たち」が聞こえてくる作品と「何も聞こえてこない」作品だ。
物を作り出す人が純粋であらねばならぬなら、あの作家やあの人は成功していないだろう。哀しいかな、逆にそんな人こそ成功なんてしないかもしれない。
ただ、だからといって純粋だから弱いじゃあ言い訳にはならない。1人で部屋の中で作品を作り続けて、世間と戦えずに埋もれて行く人もいるのかもしれない。がしかし、そんな何百万分の一の才能を持った人なら、作者の弱さを差し引いてでも、作品自体の持つ何かが、誰かを引き寄せて日の目を見る事になるんじゃないかとも思う。
それはそれでいいがめったにそうある物でもない。まあ、人それぞれだろう。
野望と希望には境目がなくなる日が来る。そこまで行ったらたいしたものだ。
夢や希望が野望に変わった時、開き直って「純粋な野望」にしてしまえば、やる方も、見ている方も気持ちのいいものだ。がしかし、その時それを「いやあ、そんなことないですよ」と薄気味悪い謙虚さを引きずり出してみても、もともと、そこには謙虚さなんてみじんもないのだから滑稽でしかない。それは止めるべきだ。絵の善し悪しがわからない人にでも、それの善し悪しはばれてしまう物だから。
うずまく思惑の中で、今年の一次通過者が決まりました。
私の出来る事はここまでで、私は最後まで頑張りました。毎年、毎年、精魂尽き果てます。なにもそこまで。いや、大切な事です。
時折思うのです。1つ1つの作品に立ち向かうのがこんなに大変なんだったら、他の何百点も集まる大きな公募展の審査をする人達は、私の何百倍も精魂尽き果てるんだろうなあと。すごいな。と。
後は、皆様の番です。よろしくお願いします。大切な作品たちです。
一次を通過しなかった人にも、レコルテではだめでも、他の所だと確実に合格だろうなという人も沢山いました。レコルテでは、もし、この作品が合格したら、その後、その作品に、どういう形でどういうやり方でかかわって行けるだろうという判断もします。作品自体が良くても、それが見えてこないものは一次通過はしません。
それは、ひとえに私の引き出しの少なさかもしれません。申し訳のないことです。
沢山のご応募、ありがとうございました。
脈絡ない文章になりましたが、感じたままの感想です。
これが、Tokay Gecko Award 2009のそのまんまの感想です。
Apr 6, 2009
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