昨日の雨はすごかった。でも雨の降りしきっている様を見ていると、ものすごく晴れた日よりも世界は何の迷いも無く綺麗で、何事も無く平和なんじゃないんだろうかなんて思ってしまう。
雨の音がするだけなんてものすごく贅沢だ。
それはそうと、久しぶりに、ブレードランナーを見た。あの映画の雨は秀逸だと思う。はじめから終わりまでずっと雨が降っている。止みそうにも無い雨。あの映画から雨をとったら、こんなにも長い間愛される映画にはならなかったはずだ。主役ではないけど、絶対必要。いろんなシーンの中で雨の存在がきわだっている。しょっぱなの、屋台でうどんを食べるシーンだって、小さな屋根があっても雨の雫が降り掛かるなかうどんを食べるというシュチュエーションには、なんとも肩が凝りそうな不便さが完璧に描かれている。そうしてそこから始まる物語の傾向さえ見て取れる。部屋の中から見るガラスを伝う雨のどうしようもない孤独感。なのに外界から隔離されている中に愛するものといる時の安心感と、いっさい描かれてないはずの暖かさ、ぬくもりを感じるのも、その雨のセイだとおもう。ただ、部屋の中にいるだけという表現では感じ得ない感覚だ。雨というのは行動を規制される様な窮屈さがある反面、何かからいろんな物や事柄を包み隠してくれそうな優しさもある。それは降ってほしくない時に降る雨にも、降ってほしい時に降る雨にもある。
古いアパートメントの屋上でレプリカントの時間が止まる瞬間、彼の上に静かに雨が降り掛かる。ただひたすら降り掛かる。とても美しく切ない。佇む彼に永遠の美を感じてしまう。多分、雨が降っているからだ。あのシーンに雨が降っていなかったら、あんなに切なく美しくはないだろう。
ダグラス・アダムスの「さようなら、いままで魚をありがとう」という本のなかに、雨に降られっぱなしの男が出てくる。彼のいく所、いや彼がいる所でさえいつも雨が降っている。エスキモー語には雪を表現する言葉が200以上もあるそうだ。とその男は言う。そうして、その男も231種類の雨を区別して小さな手帳に記録している。どうだろう?200種類の雪を表す言葉と、231種類の雨。例えば、まっすぐ降る小雨がら大きく斜めにかしいだ軽度〜中度の雨まで段階的に降る雨は47番から51番まで番号がついている。私はこういうくだらない発想が好きだ。
というか、そんなところにうーんと魅かれる。
そうして、どうしてその男がいつも雨に降られているか?という答えの出し方もダグラス・アダムスは裏切らない。
話は右往左往したが、雨は人を思慮深くしてくれるというお話でした。
May 20, 2008
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