時々、私は1900年代初めに生きていたのではないかと思う時がある。
その頃のパリやアメリカのお話を読んだり見たりすると、ありありと情景が頭の中に浮かんで、なおかつその場所場所の持つ香りまで漂ってくる。
パリには今でもその頃から営業しているカフェがあるから、何度も訪れているうちにそんな気分になっているのかもしれない。シャンゼリゼやオペラ座もいいけど、買い物やオペラは1日行けば満足するから、何日もいると隅っこの方に行きたくなって、モンパルナス墓地なんかに出かけて行く。
墓地といっても日本のそれとは少し違っていて、墓標も素敵だし(ブランクーシのキスがあったりする)ゲンスブールやアンリ・ポアンカレ シャルル・ボードレール ギ・ド・モーパッサン ジョリス=カルル・ユイスマンス マルグリット・デュラス マン・レイなんかが永遠の時を留めて横たわっている。
話はそれるがマルグリット・デュラスが「ラ・マン」を書いたとき、冒頭の「A dix-huit ans j’ai vieilli.」というフレーズを書きたかったがために、後のお話をくっつけて書いたように思える。18歳でわたしは年老いた。あのお話はその部分だけが秀逸な小説だと思うから。
本や映画、絵画や詩で子供の頃から親しんできた人たちが、本当に存在していたと思える場所だから1日いても飽きない。墓地を出た通りにあるカフェででかいメレンゲを買って、日がな一日墓地の中を散歩する。どんな風に生きてどんな風に死んでいったのか感じながら。
活字中毒なのでどんな本でも読むのだが、何度も読み返す本は少ない。「移動祝祭日」や「優雅な生活が最高の復讐である」「ウは宇宙船のウ」などは何回読んでもキラキラしていて、どうしてだろう、その場所にいたかのように揺さぶられる。
本の中にある時間の流れのせいなのか、初冬の暖まりきれないパリのアパルトマンの暖炉にタンジェリンの皮を投げ入れた事などないにもかかわらず、確かに手応えのある香りがしてくる。湿った薪の匂いとオレンジが放つ芳香。
遠くの街や、時間に想いを馳せているのは、多分、お部屋から出ていないせいだ。出られないせい? その頃の本をたくさん読み返す事をするときは、現実逃避ではなく、自分の存在を確かめたいときでもある。好きなものだけを身の回りに集めると、嫌いなものや事を忘れることができる。
とこどきそうやって確認しないと、あっという間に嫌いな物の渦に容易に巻き込まれてくだらない人になってしまいそうになるから。
副作用という嫌いなものと、薬という苦いつぶつぶはどうしていつまでも私を押しつぶそうとするんだろう。私の体は私のものなのに、中で何が起きているのかさっぱりわからない。検査で出る数値だけが私なのだとしたら、やっぱり人間って数字で支配されているよね。
子供の頃から思っていた。人間が決めた値でほとんどのいろんなことが進んで行くことが気に入らないと。時間も暦もお風呂に入って100数えるのもおやつの数も。
嫌いでしかたなかった。今も嫌い。自分たちが決めたことで自分たちのことを窮屈に縛っているみたいだと思う。
成績もお金も人間の価値も。
でも、それがないと私の価値もない気もする。
他者との違いを明らかにするのもやっぱり数字だから。やだな。
ちょっとブルーな病気持ちのグズグズでした。
「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ」とヘミングウェイが年老いて回想した青春。私の中にも回想できるパリが少しでもあってよかった。
レクター博士も囚われてなお「記憶の宮殿」の中を自由に歩き回れると言って、美しいフィレンツェのスケッチを記憶だけを頼りに描く。
今になって思う。母から「いつも落ち着きがなくて、時々どこにいるかわからない」と言われていたように、色々なところに行ったり体験したりしててよかった。
私の「記憶の宮殿」も、案外、多岐にわたるようで退屈しない。
こんな時のためのあんな時間だったんだろうと思うよ。無駄ではなかったみたい。
キャサリン・ダンの「異形の愛」が再販されてる! おすすめ。
あっでも、レクター博士が好きだというとすぐ「人の肉食べる変態じゃん」というような人にはおススメしない。
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