Jun 2, 2017

腹が立って哀しくて仕方ないけど、


直後は激昂して、書きなぐることで気を鎮めようとして、とても見せられない罵詈雑言を綴ってしまったけど、落ち着いていろいろ考えてみた。大したことじゃないけど。

人はどこから来て、どこに行くのか?
物心ついた時から、自分のことなのに何もわからず、ずっと問いかけ続けているが未だ答えなど出ない。

この、そういう時によく使われる「どこから来て、どこへ」という表現を使うから答えが出ない理由なんじゃないかと思う。

「どこから」とか「どこへ」とか。
いわゆる単純に言えば「場所」を表す表現だから、人は謎として答えを探してしまう。
答えの出ない問いや、知らないことを恐れるから。

そういう行動は、一応思考能力が備わっているとされる人間にとって、探究心や好奇心、向上心として歓迎される資質だと思う。

地球にとって無限に増殖し続けるウィルスのような人間という種に、私たちが思っているほど大それたドラマが果たしてあるのだろうか?

砂時計は、たくさんのキラキラした砂つぶが、ロート状のガラスの中で上から下へ落ちることで時間を見えるようにしてくれる。
ひっくり返した初めは、たくさんの砂つぶが入っているように思えるが、最後の方になると、なぜか同じ時間を刻んでいるとは思えないほど、あっけなくおちる。
始めた時と同じ一秒のはずなのに。

でも砂時計のずるいところはここからだ。空っぽになった不安に包まれたガラスの部屋は、次に紅茶を入れるときには、今から砂つぶを受け入れる優しい揺りかごにそっと入れ替わってみせる。
まるで、繰り返される生の営みのように。

でも、ふと思う。この砂つぶは、昨日時を見せてくれた砂つぶとは何かが違うということ。
そして目の前の紅茶も紅茶という名前は同じでも、違う「紅茶」だってこと。

人間は、考え方の違いや、好きなものの違いくらいで人を憎んだり、傷つけたりする。自分の考え方や思考が他人と違うということが、そんなに大切だろうか?大切に思うのは自分の中だけでいい。そして、じぶんの愛する人たち、例えば’一緒に生活するような狭い範囲でお互いを少しでも分かり合うために、努力をすればいいんじゃないかと思う。それでも結構難しいはず。

お父さんはコーヒーが好き。お母さんは紅茶が好き。隣のおばさんはバラの垣根を大切にしてる。隣の猫はお昼間はお散歩に行っている。私は芝生が好き。

そのくらいから始めて、今度は少しだけ前に進む。お父さんを見ていると、コーヒーを飲む時、ミルクは入れるけど、お砂糖は入れない。お母さんは紅茶を飲む時、ミルクを入れたりレモンを入れたりする。隣のおばさんの垣根のバラははよく見ると全部白い薔薇だ。隣の猫はお散歩に行く時垣根の下の決まった場所を通る。私が好きな芝生は、裸足だとちょっと濡れるくらいの芝生。

次はコミニュケーション。人にはその能力が備わっているとされている。
じぶんのことを少しでも知ってもらいたかったら、まずはこちらから寄り添ってみるのはどうだろう?大切に思う手の届く範囲の人たちなら、できるんじゃないかな。

「お父さんって、コーヒーにお砂糖入れないよね?」ここで初めてお父さんのことが少しだけわかるはず。「お母さんって、ミルクティーとレモンティーはどっちが好きなの?」ここまでは案外簡単。ここからが少し難しい。隣のおばさんはあくまでも家族ではなくて、他人なのでズケズケと聞いてしまうと、話したくない理由があるかもしれないから、本当に聞きたいことはちょっと我慢して「今日も、いいお天気ですね? おばさんちのバラ綺麗ですよね」くらいでおばさんを観察して見る。猫はそうだね、尾行するしかないか。刈り立ての芝生の匂いも好き。

お父さんとお母さんが、なんて答えてくれるかも楽しみだし、白い垣根のバラの謎を探求するのもワクワクする。だけど、答えは自分が想像していることと違うかもしれない。
必ずしも望んだ答えではないかもしれない。

もしも、お父さんが「初恋の人と初めてデートをした時、あの頃はスタバとかなくて、ちっちゃな喫茶店でね。彼女のことなんかまともに見れなくて。彼女がコーヒーを銀のスプーンかき混ぜた後にそそいだミルクが、くるくる吸い込まれて行くのを、ずっと見てたんだ。なんだかそれからコーヒーにはミルクって、思うようになったんだよね」と。

あなたがまだ小学生くらいだったら、「ママ以外の初恋の人って!」とキャパを超えるかもしれない。だけど、それだけでお父さんを判断していけない。それはその人の人生のたった一部。ほんのカケラでしかない。多分、そのあともいろんな出来事があって、今のお父さんが出来上がっているのだから。そしてあなたも高校生になって、大人になって、そうしているうちにお父さんのその出来事が素敵なことだと思える日が来る。それに、なんてったってお父さんとお母さんの愛の結晶であるあなたが、そこにいる。

だから、相手のことも自分のことも決めつけないで、そのふれあいを続けなくては。それをやめた時、自分のことを少しだけわかってもらうチャンスも失ってしまう。

だって、今のあなたは裸足で朝露のついた芝生の上を走り回っていますか?
隣の猫を、懲りもせず尾行してますか?
垣根のバラは満開ですか?
もう、謎は解けましたか?
それとも興味も失いましたか?

あなた自身のこともよくわからないのに、他人のことを決めつけてはいけない。
お母さんの答えが「あら、どっちも大好きよ」って至極簡単な理由だったとしても、がっかりしないでね。「どうして、そんなこと聞くの?」ってそんなことを聞いて来たあなたに興味を持ってくれるはず。だからそう言われたら、しめたもの。あなたのことを話せる。そして会話が続く。もしかするとお母さんは隣のバラの垣根の謎を知っているかもしれない。

一人ではないというのは、そういうことではないかと思う。
地球にへばりついて生きているウィルスだとしても、そのくらいのことはできる。
そのくらいの範囲での努力ならできる。
それが、学校とか社会とかいう範囲に少しずつ広がっていったとしても、大したことはない。
そうやって怖がらずに試行錯誤すればなんとかなる。

大切なポイントは、自分の好奇心を最大限に発揮するのはいいけれど、相手がある事だからそれ以上に相手を尊重するってこと。ゆっくり、よーく観察して。

そこさえ間違えなければ、なんとかなる。

絶対になんて言葉は窮屈で困るけど、それでも何かのちょっとした違いで他人を傷つけるのはやめてほしい。考え方や生き方なんて、ちっぽけな人間の中にあるちっぽけなものでしかない。
自分の中でだけどうのこうの判断するしかない。決して他人に押し付けてはいけない。それが家族という最小限の単位だったとしても。人間が二人になった途端、相手が誰であろうと、そこには自分とは違う思考の人が必ず存在することになるのだから。

1+1は1にはならない。永遠に2だ。
人がどこから来て、どこに行くのかなんてわかるはずもないけど、このケースのこの答えは変えようがない。

分かり合えないのが悲しいと感じる人がいるかもしれない。
でも、初めから分かり合えたとしたら、本当に楽しい?
なんの努力もなく、相手の思いや考え方、選択の仕方がわかったら本当に楽しいかな。

そうしたら他人に興味がなくなって、本当に増殖するだけのウィルスになってしまいそう。
生きるために、ただ、生きるだけ。
それって、どうだろう。

どうか、自分以外の人を思いやってください。そして、自分のことも思いやってください。
あなたも他の人も弱くて一人でちっぽけで、ほんの少し自分として存在するだけのものなのだから。人は必ず終わらなければならないのだから。その間だけでも優しくなれない?

多分、それはきっとあっという間だよ。
だから、人と違うのは当たり前のことなんだから、そんなことぐらいで他人の時間を奪わないで。そして自分の時間を放棄しないで。
もう一度、隣の猫を尾行してみようよ。おばさんに「いい天気ですね」っていってみようよ。
そこから、やり直してみようよ。何回でもできるはず。時間さえ残ってれば。

そう、そしてこれはちっぽけな私がちっぽけな私の時間と範囲で考えたことだから、みんなもそう思うでしょ?とか大それがことではない。
今の私が考えてたらこんな風に思ったよっていうだけのこと。
「今日も、いいお天気ですね」と同じくらいのこと。
なら、なぜ他の人の目に触れるようなところに書くの?って聞く?
なぜだろ、諦めてないからかな。諦めきれないからかな、何かを。
自分でもまだよくわからない。

それにこれを読んで「私は違うと思う。」と思ってもらっても、それだってとても大切なこと。
今までには存在しなかったコミュニケーションが1つだけ増えた。

テロなんてしないで。








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