多くのものはあまりに遅く死ぬ。ある者たちはあまりに早く死ぬ。「死ぬべき時に死ね」という教えはまだ耳慣れまい。死ぬべき時に死ね。ツァラトゥストラはそう教える。むろん、生きるべき時に生きなかった者が、どうして死ぬべき時に死ねよう。そのような者は生まれて来なければよかった。— わたしは余計な者たちにそう説く。
ここだけ読むと、言葉の強さから拒否反応を示す人もいるだろう。
死ぬ や 死ね という言葉は使ってしまうと罪悪感を伴う恐怖を感じる。
生きるべき時に生きなかった者が、どうして死ぬべき時に死ねよう。
その言葉だけで語るとしたら(もちろんこちらからしたら、勝手にものすごく哀しくてしょうがないのだけれど)もしも早くに死んでしまったとしても、それは、生きるべき時に生きたから、そうしたら死ぬべき時(そんな時があるのかどうかは別にして)に死ねたんだってことでいいんだよね。
生まれることも、死ぬことも 基本、自分ではどうにもできない。
ただ、物心がつく頃まで生きると、なんだか生きるべき時が嫌でもやってくる。
いろんなしがらみや生きにくさも同時に訪れるけれど、そんな事は、生きるべき時に「これは、生きてみるしかなさそうだな」と腹をくくれば、時が経てば笑い話か、記憶さえあやふやな過ぎ去った日々の天気の様なものだ。
遠足の日の雨を覚えていても、それが記憶となった今、その時の雨とは違った雨に見えるはず。
きっとその遠足をすごく楽しみにしていたのなら、すごく嫌な雨だったよね。なのに、過ぎちゃった。それにそのあと、デートの時に好きな人との距離を少しだけ近づけてくれる優しい雨が降ることもあることを知った。そう、生きてきたから。
だから、次の雨がどんなに嫌な雨だったとしても、素敵な雨も降ることを知っていれば、きっと大丈夫。
ツァラトゥストラは、この時点ではなんだか優しい。
その事を、余計な者たちに説いている。説こうとしている。
人が生きていくうえで、取り返しのつかないことにならない様にしてあげたいという、愛を感じる。
私だったら、自分で決めたわけでもないのに、気がつくと生きていかなければならないことになってしまった時、そしてそこから時間を過ごしてきた時、自分でその事に考えが至らなかった人に、そんな事をわざわざ話そうとは思わない。
最近思う。
誰かが亡くなった時、ある人はすぐにその理由を聞きたがるけれど、亡くなった人が生きてきた理由は聞きもしない。
そんな人に、どう答えればいい?
はっきりと目に見える事実は「もうここにいないの」という事。
それしかない。
それより、その人が存在したときのことを話そうよ。
あんな風に笑ったとか、あんなところがドジだったとか、あんなにも素敵な絵を描いたとか。声が好きだったとか。
乾ききることが難しいカサブタなのに、何回剥がせば気がすむんだ。
その度に、血を流し続けるしかないじゃないか。
答える方もほとんどの場合、亡くなった理由は(それが事実かどうかな別にして)口にしやすいが、その人が生きてきた理由を上手く伝えることが出来ない。
そして、その人が存在した理由を見出せないのなら、世間話のついでみたいに口にしないで。いなくなった時点から時が過ぎ、今になって、どうして?って聞かなくちゃいけない立場だとしたら、故人からすると知る必要はない人ってことだと思う。
人が死ぬことに対して鈍感な人もいる。本当に興味がないのか、怖いからなるだけ触れないようにしたいのか、その理由はよくわからないのだけれど。
「明日の天気、どうよ?」っていうくらい簡単に「どうして死んだのよ?」「何が原因?」「病気なの?」って。
達観してるのか、バカなのか、どっちだろう。
そういう人は簡単に「人はどうせ死ぬために生きてるんだから。」とかどっかで聞きかじった受け売りであろう言葉を平気で使う。
人は死ぬためになんか生きてないよ。生きるために生きて、生きて、だから苦しんだり、喜んだりして。
ただ、どんな旅にも終わりがあるだけ。
それに、その旅の終わりを経験した人が、のちに私たちに「あのね、旅の終わりはこうだったよ」とか「次の旅が始まるよ」とか話してくれる機会がないから、ちょっぴり不安だったり寂しかったり、自分ではどうにもできないだけ。
だから、自分でちょっとでもどうにかできそうかなって時を、生きるために生きるしかない。
君が死んだ時は、旅行に行った時の馬鹿話とか、面白くなかった映画を見た話とかのついでに、「で、あいつ死んだんだって? なんでよ? どうしてよ?」「まあ、実は全く興味ないんだけど。」って言ってやるよ。
って思っちゃうくらい、腹立たしかったんだ。口悪くてごめん。
そんなこと言わないよ。
この曲、可愛いよ☆